結婚するとき、グランドピアノを新居に持っていかない決断をしました。



夫は大学時代のひとつ先輩で、ピアノも全然やらない、

クラシックは聴かない。音楽はフュージョンがまあまあ好き。

 

夫は、大学時代の私を知っています。

試験での演奏に授業オケの合宿、

毎日、ピアノと歌とヴァイオリンを何時間も練習して、作曲の課題やって・・・という様子を知っていたので、ピアノが私に必要ということはわかってくれていたのですが、

結婚したばかりで余裕のないときに、グランドピアノが置ける賃貸物件に都内で住もうとなると、1.5倍ぐらいの家賃になってしまう。

当時わたしはピアノを教えていたわけでもないので、

そこまでして新居にグランドピアノを持ってくる、というのには、夫は賛成してくれませんでした。

それは仕方ないことです。

 

この人と結婚するんだったらグランドピアノはしばらく置いていかなきゃいけない、

どうする? 違う人にする? ずっと独身で実家にいる? いまは我慢してグランドピアノと別れる?

という3択です。

 

結婚という話になってから、ずーっと悩んでいました。

彼かピアノを選ばなきゃいけない。

そんなの選べない。

どっちも大事なのに。

でも人生には、天秤にかけられないものを選ばなきゃいけないことが、結構起こるわけで。

 

悩みぬいて出した結論はこうでした。

 

この人と別れても、ピアノを置いてもいいといってくれる人でピンとくる人でしかも結婚しようと言ってくれる人に

今後出会える保証は、ない。

 

夫は、いまは余裕がないから持ってこれないのは申し訳ないと思ってる、

グランドピアノの置ける家に引っ越せるときがきたら

持ってきていいよ、頑張って早く引っ越そう、と言ってくれていました。

 

何年か我慢したら、夫とピアノ、両方一緒に暮らせる、

それに賭けてみよう、

大変だけど一番それが理想に近い、と腹をくくり、26歳で結婚しました。

 

グランドピアノと一緒に暮らせるようになったのは、結婚してから5年ぐらい後です。

 

結局その間は、電子ピアノを買って持っていたけど、あまり弾かなかったな。

電子ピアノの音も好きじゃなかったけれど、それだけじゃなかった。

大学を音楽の道で進むという話になった中学生のころから、

やりたいかどうかに関係なくチェルニーとバッハとベートーヴェンは必須で

手の形をこうしてあれをこうして、苦痛でした。


好き放題に楽しんで弾くみたいなのができなくて

曲はどんどん難しくなっていって、短期間で譜読みしなきゃいけないし

思うような演奏はできないし、

いくらやってもうまくいかないので

大きな壁にぶちあたっていたのかもしれません。

 

ちょっと難しい新しい曲を仕上げ、マルをもらって

次に進むルートにのってずっとやってきたせいか

音数の少ない余裕がある曲を味わって弾くのとか、全然楽しめませんでした。

 

そのころ、夢にさえも見ていなかった音楽ライターの仕事が現実になり、今の20倍ぐらい時間をかけて書いていたんですよね。当時。笑

書いては消し、書いては消し、調べまくっては悩み。

見開き2ページぐらいの原稿に1週間ぐらいかけていました。


そもそも文章も、誰にも習ってないんです。

お手紙を書くのは好きだったけど、

誰かライターに弟子入りしたとかもない。音楽雑誌に文章ってどうやって書くのとかも

全然わからない。とにかく見よう見まねなんですけど、そんなにカッコよくも書けないし

もちろん文章はスラスラ出てくるけど、それが雑誌のその場にふさわしいかどうか

全然よくわからなくて。

 

あのころ、夫が夜の9時ごろいつも帰ってくるのに、いつも8時半まで必死に原稿を書いていて

9時ごろに「ただいまー」って夫が帰って来た時に、必死に料理しているという。

朝から家にいたのにどうして夜までそんなにやることがあったのか今になるとよくわからないんですけど。

家事だって手抜きだったのになぁ。

新米ながらも音楽ライターとして必死だったんでしょうね。

憧れのアーティストに会ってインタビューすることが仕事になってしまって

自分に果たしてその大役が務まるのかプレッシャーは大きなものがありました。

だからピアノに気持ちが向いていなかったのもある。

 

もちろんピアノの弾ける家に引っ越したい、その気持ちは持ち続けていました。

いったいいつのことだろう、

と絶望的な気持ちではいたけれど

はっと気づいたら5年ぐらいたっていて、

ピアノの置ける家に引っ越せる状況になっていたんです。

 

新居には、実家からグランドピアノを持ってきました。

夫に「狭くなっちゃうけれど、ごめんね」というと、

「いいよ。やっと持ってこれるね」といってくれました。

 

中学2年のときに買ってもらったカワイのKG-4。

運送屋さんが実家からピアノを持ってきてくれて、設置が終わって

しーんとした家のなかで

ピアノにそっとさわってみたら、

たまらない気持ちになって。

ピアノに覆いかぶさるようにしてふたを撫でながら、ずっと泣いていました。

「ずっと、ずっと、ごめんね。今日からまたよろしくね」

久しぶりにふたを開けて弾いたら、

調律が狂っていて変な音だった。

変な音だったけど、ご飯をつくらなきゃいけないタイムリミットまでずっと弾き続けていました。

 

と、そんなに号泣して再会したわりには、

弾かない習慣がついてしまっていたんです。

何から手を付けたらいいんだろうみたいな

リハビリみたいな感じで、

弾くのはほんとうに、ぼちぼち。

大好きだったショパンのバラードとか

ラヴェルの水の戯れも

指が動かなくてうまく弾けない。

 

それでも、やっぱりピアノを弾くと、落ち着くんです。

自分の声みたいな分身なんですよね。

言葉にできないものがピアノだと音にできる。

それを経験してしまうと、

ピアノが自分の一部になってしまって

ピアノがないのが耐え難いんです。

電子ピアノだと自分の声にならないの。

だからこんなのはピアノじゃないって、意地悪いことを思ってしまう。

 

もう、ずっと一緒だからね。

と、ピアノに話しかけていたのだけれど、

その後、また、ピアノと別れなければならない事態になります。

 

続きはまた。