さて、太白神社を後にして

「矢板まで来たから、塩谷の、あの神社にでも行ってみようか!」と塩谷方面に向かいます

街道を走っているとナビに「生駒神社」とありました

が、ポイントは森林になっていて、街道からは入口らしき所はありません(^_^;)

少し戻った所に、この看板を発見

「勝善神社」?ナビには「生駒神社」とあります(^_^;)

取り敢えず、手前の広い路肩に停めます

看板脇の建物は津島神社だそうです

隣に生駒神社の石柱を発見

「ああ、やっぱり、ここでいいんだ~!」(^∇^)

但し、この先は何もありませんでした(^_^;)

隣に部落のお墓がいくつかありました

が、墓石に「奥津城」の文字(ノ゚ο゚)ノ

丸山古墳で初めて知りましたが、意外に使われているんですね(^_^;)

お墓の左奥に草むらの山道らしき道筋があります

方向的に、ここしかないので、山道を進みます(^_^;)

すると、山道の奥に、けっこう大きな鳥居と、開けた場所に社殿が見えます(ノ゚ο゚)ノ

「本当にあった!」全く期待していなかった規模の立派な神社です(^∇^)

鳥居脇の杉も、大樹ではありませんが、中々良いです(^_^)

右手側、石灯籠

広々とした境内、左手、読めませんが由緒書きだと思われます(^_^;)

右手に紙に書かれた由緒がありました(^_^)

由緒

 

通称 勝善様とも呼ばれ親しまれています。
神社沿革によると、人皇七十六代 近衛天皇の御世に、白面九尾狐が四隣各地を荒し、住民は戦々恐々の生活を送る日々でした。
帝は第三王子の勝善親王に討伐を命じ、親王は士卒を引き連れて此の玉田の里を本陣としました。
時に悪狐は同群大槻に屯し各地を荒らす。
親王自ら陣頭に立ち奮戦力闘するも大きな槻の木の密林を利用し頑強に抵抗す。
親王は合歓の木の下でその使命を達成する方法を豊受姫命に懇情祈願したところ、姫が夢枕に立たれ「槻の木を斧で切りつつ燃やせ」との仰せを受け、その通りに致しますと、悪狐はたまらず那須野原に飛行し殺生石になったと伝えられています。
尚文楽、歌舞伎「玉藻の前」は此の話が元と云われている。

 

那須の殺生石や、三浦ノ介にも通ずる話ですね(^_^)

 

ただ、検索で調べて見ますと「近衛天皇」は、早世した為、皇子女はいない様です(^_^;)

 

境内右手、神楽殿

隣は、神庫でしょうか?

奥に境内社っぽいですが、何社かは不明(^_^;)

中々立派な拝殿

生駒神社だけあって、馬の扁額が掛けられています(^_^)

拝殿内にも、馬の額画が沢山ありました(^_^)

豊受姫命が祀られているだけあって、本殿は神明造り(^_^)

本殿ひだりにも石碑

なお、ただの手水舎だと思い撮り逃してしまいましたが、枯れる事のない地下水で、「勝善水」と言うご神水だそうです(^_^;)

 

草むらの奥に、まさかこんな立派な神社があるとは(ノ゚ο゚)ノ

ぜひ入口参道の整備をしてもらいたい神社でした(^_^)

 

さて、次は塩谷の、あの神社です(^_^)

地図