学校というのはわかりやすくてありがたい。
多くの場合そこで過ごした数年間、
なにかを積み重ねてきた証拠が残る。
卒業というゴールがある。
がんばりました。
あなたはここで確かに積み重ねてきたのです。
友達ができました。
字が書けるようになりました。
読めるようになりました。
計算だっていまはこんなにむずかしいのができます。
けっこうバカなこともやりました。
なにより、あなたは成長しました。
ここに来た時とは比べものにならないほど。
首席でもギリギリセーフの卒業でも、
卒業は卒業。
たしかに積み重ねてきたことを認めてもらえる。
それがなくなったら。
卒業のない生活がはじまったら。
積み重ねてきた証拠はどうなるだろう。
だれかに認めてもらえればいいけれど、
もしそうでなかったら。
認めるのは自分だろうか。
自分で見つけなければならないだろうか。
見つからないときは、どうすればいいだろう。
なにも積み重ねてきていない可能性もあるわけで、
それをあることにしても、
ごまかしは自分にすぐばれる。
ばれる前にばれている。
時間を浪費したことになるだろうか。
ただ生きていただけ、ということになるだろうか。
いままで生きてきて、
いまも生きているだけでめっけもの、
ということにできるだろうか。
今日1日のできごとと
「My Life without me」という映画によって、
沸いてきた後ろ向きな思考。
映画の内容と今日のできごとには
なんの関係もない。
趣味も見かけも金銭感覚もまったく違う両親から生まれた
親にぜんぜんに似ていない子ども、
のようなことを書いた。