いい靴の去り際 | 群衆コラム

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耳目を惹きつけて止まない話題の数々。
僭越ながらお届けいたします。

何度も、もういいかと思って、捨てようとした靴がある。



大学をいよいよ終えて、あと数日で引っ越すというときに買った

コンバースの革のスニーカーである。

とてもいい街だったから、名残惜しくて、

街の一部を身につけたいと思ったのかもしれない。



商店街に行けば、どこの店にでも置いてある靴だったが、

量販店ではなく、わざわざ個人のやっている店で買ったと記憶している。

店先に「シューフィッターのいる店」という掛け看板があったのが決め手だった。

出てきたおっちゃんは、めがねに紺のエプロンをして、

いかにも靴に詳しそうだったので、よし、この店で間違いないと心を決めた。



そうして買った靴は大切に履いたつもりだったが、

徐々に壊れてきたのはしかたがない。

きれいで革の白さが映えていたころより、

黒ずんでところどころ布がはげかかってきたころからが、

この靴の最盛期だった。

マレーシアの雑踏、スペインの石畳、ネパールの山の上、チュニジアのサハラ砂漠。

こんなに世界各地の土を踏んだコンバースのスニーカーはないと思う。

世界一ではないかもしれないが、トップ100くらいには入っているんじゃないだろうか。



八面六臂の活躍をしたスニーカーだったが、

近年は地面が雨に濡れているだけで靴の裏から水がしみ込んでくるようになった。

さすがにこれはもうだめではないか。

いや、まだ晴れの日には履けるじゃないか。

と、心が揺れ動くようになった。

靴としての形をなさなくなったわけではない。

履くことはできるけれど、使える場所がとても狭くなった。



人が見れば、わざわざそんな靴履かなくても、と思うことだろう。

この靴がなくても困ることはない。

でも捨てられない。

そんな葛藤を抱えたまま数ヶ月。

靴は履かれる機会のないまま、玄関にずっと置かれていた。



そんな折、ものをきちんと使い切ったかどうかは、

捨てるときにわかるという話を聞いた。

捨てるときに「ありがとう」という気持ちになったら、それは大往生。

「ごめんなさい」だったら、それは使い切れなかったということ。

まことにわかりやすい基準である。

この基準に照らしつつ、玄関で靴を手に取って眺めた。

靴裏はすり減っていて、どこから水がしみてきてもおかしくなかった。

赤かったはずのコンバースの星のマークは、

表面の布が剥がれて黒ずんだ白になっていた。

本当に履きやすい靴で、この靴なら長い距離を歩いても大丈夫と思えた。

そういえば、43キロ歩いたときもこの靴を履いていた。

この靴を捨てるとしたら、「ありがとう」しかないだろうと思った。

やっと決心がついた。



今朝捨てたゴミ袋の中には、あの靴が入っていた。

あの靴だけはほかのゴミとは別に、お店で買ったときのようにビニールの袋に入れて、

ゴミ袋の一番上に詰め込んだ。

捨てると決まっても、あの靴をゴミとは思えなかった。

いい靴は、最期のときまで靴なのだと、語っていった靴だった。

ありがとう。

あなたほどの靴にまた出会えるかどうか。