デジタルの杖 | 群衆コラム

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耳目を惹きつけて止まない話題の数々。
僭越ながらお届けいたします。

幼稚園に入って以降と思うが、

年に何度か出しものをさせられてきた。

なんでこんなことを練習せねばならんのだ、

と子ども心に思ったものだ。

大学に入ったころにはもう出しものをさせられることはなくなっていたが、

逆にバンドを組むという形をとって

人前でなにかやりたがる人が増えていった時期でもあった。



働くようになって、もう出しものとは縁が切れた。

と思ったら大間違い。

縁が切れるどころか、いままでの出しもの人生は

まさにこれからのためにあったかのように、

働きはじめてからというもの、

出しものを見る機会もする機会も毎年必ずやってきている。

いわゆる出しものではなくとも、

人前でしゃべるくらいは誰でもしなければならない。

そのレベルのものまで含めれば、

大人は年中出しものをしているようなものだ。



新人の年はとくに、出しものをすることは避けて通れない。

上のものからそういうものですと言われれば、

さようですかとやるしかない。

いやいやながらもやる仕事というものがあるとするならば、

その最初の大物が出しものかもしれない。



今年も何度か新人の出しものを見てきた。

無条件におもしろいから、その点新人はとくだなあと思う。

でも、新人はそのことに気づいていない。

だからかもしれないが、

何年か前から出しものがデジタル化してきている。



ここでいうデジタル化とは、パソコン、プロジェクター、スクリーンを使って、

事前に作っておいた映像や画像を流す類いのものをいう。

これに対して体ひとつで、ぶっつけ本番一発勝負で行うものをアナログという。

さすがに作ったものを流すだけというのはないけれど、

半分は映像で半分は自演という形が増えてきている。



保険なのだと思う。

その場ですることは、どうなるかわからない。

緊張して口がまわらないなどということはいくらでも起こる。

セリフが飛んで頭が真っ白というのもめずらしくない。

うまくいかないかもしれない危険を回避すると、

半分は映像、という形になるのかもしれない。



出しもののおもしろいところはうまくいかないところにあると思えば、

その場でやってしまうのが一番いいことになる。

うまくいかなければならないと思えば、

事前の準備を入念にする必要がある。

どんなに練習しても、本番では何があるかわからない。

映像は本番で絶対あがらない。

これ以上に確実な方法はない。



デジタルな道具が身近になった恩恵である。

おそるべきことに、出しものの練習をするより、

映画を1本作るほうが簡単になってしまった。

できたものを見るとその出来映えはじつに見事で、

いったいどうやって作ったのか見当もつかない。

しかも内容がおもしろいから、

こんなやり方もありなのかなあと思ってしまう。



出しものは、好きなようにやればいい。

でも、忘れてはいけないことがある。

デジタル機器は杖のようなものだ。

人前に出るとき、パソコンやプロジェクターがあると、

妙に安心して話すことができる。

コレサエアレバナントカナル、と。

デジタル機器に寄りかかって人前に立っているようなものと思う。

そんなことはないという人は、体ひとつで人前に立ってみるといい。

なんとも言えないよりどころのなさがあり、

立っていることさえ落ち着いていられない感覚を味わうはずである。

なんともない人は、よほど肚が座っている人だろう。



世代が若くなるほどに、足腰は弱くなっている(人のことは言えない)。

人前に立つにも、足腰の強さは必要であり、

それは場数を踏んで鍛えなければ身につけられない。

転んじゃいけないからといって、赤ん坊に杖を持たせる親はいないし、

自分から杖を持ちたがる赤ん坊もいない。

通り過ぎてわかったことだが、

転んでも喜ばれるのは、赤ん坊と新人の特権と思う。

転ぶことを怖がるのは、まだ早い。