最近よく目にする言葉が「ウィズ・コロナ」だが、最近の造語としては最低だと思っている。
そもそもウィズとは「何をかいわんや」だ。もっとひどいのが「コロナとの共存」。これなんぞ、問題外だ。
ウイルスからすれば、人類なんぞ遺伝子複製工場でしかなく、しかも老朽化したらとっとと火を放って高跳び。情け容赦の微塵もない。そんな、いわば反社勢力の様な集団と共存を図るとは「お人よし」にも限度というものがある。そんな態度だから、ウイルスから舐められるわけだ。
なぜウイルス戦争といわないのか。もどかしい。
もちろん、ウイルスとの共存があり得ることは理解している。現にトリインフルエンザは、その亜種のH1-16/N1-9の全部が水禽類などに宿っていることはよく知られている。まさに鳥とインフルエンザウイルスが共存しているわけだが、共存できる理由は、病状が現れないことにある。つまり宿主には危害を及ぼさず、静かに同居させてもらっているということだ。ウイルスにとっては自分を排除しない宿主に巡り合えた。一方、宿主にとっては、共存するウイルスがいることにより、他のウイルスへの感染リスクが軽減するというメリットが得られる。そういう利害関係があれば、共存はあり得るわけだ。
ところが、現時点で見る限り、新型コロナウイルスによる人類への貢献は見えない。その状態で共存の道を探ることは、時期尚早も甚だしいと思うわけである。
小生は、新型コロナウイルスに限らず、ウイルスの産生や感染も「神が造った自然現象」の一つであると考えている。一方、神様の偉いところは、単にウイルスを作るだけだとウイルスも人類もいずれは共倒れしてしまうから、それを避けるべく防御策を講じた。それが免役。
人口全体を一定とすれば、感染流行の拡大が進むことと並行して感染防御免疫を持った人の割合も上昇し、回復者(死亡者も含む)が増えることで感染者はいずれ消える。逆に人類が全部死亡して絶滅してしまったら、ウイルスもそこで絶滅してしまうことになる。。
免疫という手段で人類は生き残る。しかしそうなるとウイルスは一方的に絶滅の道を歩んでしまうから、それを回避すべく変異を遂げる。つまり、神はウイルスと人類に「免疫と変異の闘いによって自然選択(自然淘汰)させる」という試練を与えたのだと。
有史以前に、ウイルスによる人類の絶滅危機は何度もあっただろうと思う。しかし、そこで絶滅することなく生き残ったのはなぜか。回復者が免役を持ったためではないか。それを考えると、西太平洋を囲む諸国の死亡率が圧倒的に低い理由に就いて文化人類学的な公衆衛生や道徳観念だけで説明することには無理があると思っており、遺伝子レベルでのHLA抗原の精査、交差免疫の有無、感染初期段階での無症状感染の可能性、そして免疫力に多大な影響を与える体内微生物のマイクロバイオーム研究など、免疫に関する自然人類学的アプローチが解になるのでは、と考える。