4月も下旬になると、桜前線は津軽海峡を渡り北海道で満開を迎える。悠久の時を超えてこの流れはずっと続く自然の営みであるが、近年の桜の花の色は昔と少し違うのではないかと言うことに最近気付いた。
つまり、昔の桜の方がもっと赤かったのではないかと思うのだ。
これは知り合いから指摘されてふとそう思ったことなのだが、確かに最近の桜(この場合はソメイヨシノ)の花びらは、花の中央付近はピンク色しているものの 全体としては相当に白く、いきおい、白の占有率が圧倒的に大きい。ところが記憶にある桜の花の色はもっとピンク色をしていて、今の桜の色とはずいぶん違う気がするのだ。
もちろん、昔の桜の花写真などを調べれば判ることなのだが、なにせ何十年も前の写真などは色が退化してしまっているし、印刷されたパンフレットなどに描かれているものは色修正がされてているだろうから参考にはならず、いきおい、記憶にある桜の色との比較することを余儀なくさせられるわけだが、その比較において感じることとしては、やはり昔と今とでは色が異なる気がするのである。
そういうことを言うと、たいていの人は同意してくれて、昔と全く同じだという人は稀な様だ。従って余計そう感じられるのだが、その原因は地球温暖化などを含む環境の変化によるとか、遺伝的問題によるとか諸説ありそうだが、
小生はどうもこの原因は「思い込み」にあるのではないかと考えている。
つまり、本当は昔も今も変わらないのだが、桜の花はピンク色だと思い込んでいることに原因があるのではないかと思うのだ。
この思い込みというのは五感に訴える商品開発に於いては非常に重要な要素であり、扱いを間違えると、例えどんなに商品の機能やパフォーマンスが高くても市場では駆逐されてしまう。つまり人の感性に訴える商品は、ユーザーの思い込みに対して忠実である必要があるのだ。
最近、オーディオ関係の開発エンジニアの方から「ドイツとイギリスでは再生音に対するこだわりが異なる」という話を聞いた。そもそもスピーカーから出てくる再生音は、音源から出された電気信号が途中の信号処理や使用される部品の仕様や特性、さらにスピーカー性能などの伝達経路によって異なるために機種やメーカーによって大きく異なってくる。それはよく知られていることであるが、そこに嗜好というパラメータが入ると、くだんの話のようにドイツ人が満足する再生音とイギリス人が満足する再生音とでは、同じ音源からの再生音でも違うらしい。
このパラメータの根底にあるものの一つに「思い込み」がある。つまり、その思い込みとの差分が大きいと違和感を感じ、差分が小さければ満足するというわけである。再生機を商品化する場合には、極端に言えば原音に忠実なことよりも聴者の思い込みに忠実な方が商品価値があるといっても過言ではないのだ。
これは、映像でも同じで、先に述べた桜がよい例だろう。白よりもピンクがかった桜を再現した方が、少なくとも日本人は美しいと感じ、満足感が得られる。たとえ本当の色ではないにしても満足感を与えられることが出来れば商品価値は高いものになる。
これはすでにテレビではとうの昔から採用されている、いわゆる「絵作り、色造り」」という技術で、日本製のテレビを輸出する場合などには、仕向け先によってデフォルトの色調整を変えて出荷しているのだ。実際にデジカメで撮影した写真をパソコン画面で見た場合とそれをテレビに移した場合とでは色がまるで異なるという経験をした人も多いと思うが、これが色造りだ。
色とか音といったようなアナログな情報の記憶は相当に曖昧であり、絶対値としてはっきり記憶することが難しい。もちろん世の中には絶対音感を持った天才もいるが、多くの人はそれらの物理量は相対値として記憶しているだけである。したがって、テレビに映る花がピンク色していないと桜だと思わない、それくらい記憶と現実には差異があるということになる。
人によって思い込みは異なるが、ある程度の国民性とか国民的嗜好というものはありそうだ。確かに、子供たちに空の色を描かせると、国によって異なる色を使うという話を聞いたことがある。ひょとすると桜の花も、国や年齢によって異なるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、桜はもうすっかり葉が茂る季節になった。