休日の股旅  - 記憶を辿る群馬県旧碓氷峠 | プロムナード

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旧国鉄時代の旧信越本線の横川駅と軽井沢駅の間はかつて碓氷線と呼ばれ、1893年の開通以来、1963年(昭和38年)に粘着式での信越本線碓氷峠が開通するまでは「アプト式」と呼ばれるピニオンギヤとラックレールの上を、ゆっくりと汽車や電車が走っていた。

小生が子供の頃、ウチの親戚が軽井沢に別荘を持っていたので軽井沢へはよく連れて行ってもらったのだが、いつも車での移動だったために碓氷線については車の中から見るだけだっだのであまり記憶はないのだが、下の写真にある第三橋梁という通称「めがね橋」だけは、夜の碓氷峠を走行する車の中から見上げたその姿について鮮明な記憶がある。

碓氷線第三橋梁(メガネ橋)

当時は高速道路はおろか、中仙道のバイパスすらなかった時代だったから、旧中仙道をひたすら軽井沢へ向かって走るしかなかった。従って、碓氷峠に差し掛かる頃には日も暮れていて、つまり闇の碓氷峠を通過していたワケだ。

であるから峠そのものの記憶はそれほどあるわけではないのだが、一方、闇の中で満月の光を浴びているめがね橋はあまりにも崇高で、当時はこれが鉄道の陸橋とは理解していなかったために、ある種、何か空恐ろしい建造物のように感じさせたものだった。といっても怖いと思ったわけではない。

なんというか、巨大な力で引き付けられる様な、そんな感じといったらいいだろうか。とにかく子供心には鮮烈な印象として心に残っていて、その場面の絵を描けといわれれば月光に浮かぶ橋の姿を正確に描けると思う。尤も、絵心ないから描けないけど。

その後、軽井沢やその先に行く時には、必ずこの旧碓氷峠を通ってめがね橋に挨拶をしてから通過しているが、一つだけどうしても解せないことがあった。それは、自分の記憶では、このめがね橋とは別にもう一つの橋があって、その橋を真上に見上げた記憶も鮮明にあるのだが、その後何度碓氷峠を通っても記憶と合致するその橋がどこにも無いのだ。めがね橋との記憶違いか?いや違う。めがね橋は旧碓氷峠車道とは少し離れているので、真上に見上げることはないから、どう考えても眼鏡橋じゃない。これは長い間の謎だった。

その謎は近年になってようやく解けた。

旧碓氷峠車道は、当時の車道と現在の車道が一部異なっており、かつて橋梁の下を通っていた道が今は廃道となっていて、新たに作られた道が現在の旧道となっていたのである。このことが分かり、早速その道を見に行ったのだが、既に完全に荒れ果てていて、当時の面影はないものの橋そのものは今でも残っており、その下を車が走っていた形跡が僅かながら確認できた。この橋の下を潜っていたのである。

謎は解けた。まさに溜飲の思い。それがこの写真だ。碓氷峠の自動車道が橋の下を走っている。しかし50年放置されれば、自然に帰している。

左下の写真を見ると、橋のアーチ上部に高さ制限を示す黄色い警告表示が確認できる。つまり自動車道であったことが判る。


 

   自然に帰った中尾橋拱橋と、かつての中尾橋拱橋


しかし、自然の回復力とは凄いものだ。人間が作った道など、ほんの数十年で完全に野生に戻ってしまう。アスファルトの様な人造物であっても、どこかに亀裂が入れば、エントロピーの増大が如く破砕は不可逆的に進行し、やがて土に埋もれる。

それに比べてレンガ造りの橋梁はなんと丈夫なことか。風雪や地震に耐えながら、110余年を経た今でもその勇姿は健在だ。こんなものを作った明治時代の土木技術には驚くばかりだ。

第三橋梁は小生にとって、いわゆるモノリスである。