子供の頃、与えられたおもちゃをことごとく分解した。記憶が定かではないが、動くおもちゃなどの場合、その仕組みが知りたい的な探究心というより、もっぱら好奇心で分解しまくっていたと思う。しかも元に戻すことなど殆ど意識していないから、始末に悪い。親の目覚まし時計を分解して元に戻せなくなった時はさすがに怒られたが、その性癖は今でも脈々と継続している。
この癖が奏功してか、自分の周りにある電気製品、ことのほか物持ちが良い。そりゃそうだ、出来る限り自分で直すから。但し電車賃等を計算すると、修理の方が買うより高くつくことも多々あるが。。。
性分がケチなのかもしれないが、故障した電気製品を壊れたまま捨てることが、ある意味悔しい。
その結果として、我が家には家人の敵ともいうべき「完動品ではない電気製品」が山のようにある。完全に動作しなくなったもの、とりわけ修繕不可能なものについては後ろ髪を引かれつつも廃品として処分しているが、少しでも動くものはいずれ修理するつもりで(という名目で)、手元を離れない。いつの日か、一部だけ動くという製品を組み合わせて驚くような機能を持つ怪物を作ることになるかもしれない。ありえないとは思うが。。
但しいいこともある。拙宅のコタツなど30年間の使用期間中、4~5回くらい自前で修理して現在も現役だ。尤も、修理といっても接触不良と温度ヒューズ切れといった簡単なもの。それでも分解して当たってみなけりゃ直せないのだから、それなりに家計に対して貢献はしていると自負している。
こういった簡単な回路構成の家電製品はもとより、昔は使用している部品も秋葉原に行けばたいてい調達できたから、ステレオアンプみたいな厄介なものだって部品を調達して自分で修理することも可能だった。しかし、今日びの部品の調達はそうは行かない。特にIC関係など、家電品に使用されているICは殆どカスタム品だから入手は不可能。従って直そうにも直しようがない。
ところで、よく考えてみると、
「直せる」ということは、実はとても大切なことじゃないだろうか。
形あるものはいずれ壊れていく。しかし、壊れる時間までの時間を延長させることは可能だ。
ものづくりも大切だが、直すことだって十分に大切である。
最近の電気製品は、それはそれは良く出来ていて、一体何故この小さな筐体に驚くほどの機能を蓄えることが出来るのか、中身を知れば知るほど不思議でしょうがない。しかも省電力設計の為に、これでもかというほど細かいところまで消費電力の無駄を省いている。それでいて低コストである。とてもよいことだ。全く何の貢献もしない無駄は、省くべきである。
一方、メインテナンス性についてはどうか。もちろん、製造メーカーであれば治具も部品も用意されているから修理は可能だろう。しかし、修理心を持つ人に対しては極めて拒絶的である。蓋を開けたときの保証対象が云々というような問題ではない。そもそも修理出来ないアーキテクチャになっているのだ。それって、修理してみたいと思う向上心を挫いていはいないだろうか?
手持ちの家電製品が故障した。何故か?どうすれば良いのか?試してみた。うまくいった。うまくいかなかった。では別の原因があるはずだ。どこだ?どうすれば良いのか?そういう探究心を救うことが出来ないのだ。
テレビやポータブル機器のバーチャルゲームも否定はしないが、現実世界に於ける故障修理というゲームだって、楽しいはず。その機会がどんどんなくなってきていることが残念だ。