「新春」の行事 → 始業式
十日ゑびす 「のこり福祭」
初寄り 節分 節分お化け 宮川町の始業式始業式とは、祇園甲部の八坂女紅場(にょこうば)学園や、宮川町の東山女子学園、祇園東ではお茶屋組合の二階でそれぞれ行われる始業式のことです。
正装の黒紋付きを着て、かんざしと本物の稲穂を挿した芸妓・舞妓さん、学園の先生、お茶屋の女将などが一斉に揃います。
祇園甲部では「芸妓・舞妓の誓い」の一同斉唱の他、売上の優秀な芸妓・舞妓さん、お茶屋の表彰が行われます。
最後は京舞井上流家元井上八千代師の「倭文」の舞でしめくくられます。
芸妓・舞妓さんの華やかな正月の正装と新年を迎えるにふさわしい厳粛な雰囲気が印象的です。
恵美須神社
商売繁盛の神さまであるゑびす神、いわゆるエベッさんの誕生日を祝って行われる十日ゑびすは、その徳にあやかろうと多くの人がつめかけます。
8日の宵ゑびすに始まり、10日は大祭。翌日の11日は「のこり福祭」で、京都らしく恵美須神社に縁の深い、祇園甲部や宮川町の舞妓さんたちが、福笹の授与を行います。
巽橋にて
年末13日の事始めで一年をしめくくり、正月準備を始めた芸妓・舞妓さんたちは、正月や始業式を終えて、1ヶ月後の1月13日に、再び五世井上八千代師宅に顔を揃え、一層の精進を誓い合います。
お屠蘇と雑煮で正月を祝い、お師匠さんから励ましの言葉を受け、新たな気持ちで一年が始まります。
八坂神社での奉納舞
祇園甲部、宮川町、祇園東が氏子になっている八坂神社の節分祭では、厄除・健康・幸福を祈る神事と芸妓・舞妓さんによる奉納舞と豆まきが行われます。
本来日本の芸事は、五穀豊穣や国家平安を祈って神さまに奉納するためのもので、元々花街が神社仏閣の参道など人の集まる場所に発達した背景もあるので、こうした奉納舞が行われるのです
足早に一力茶屋へ
節分の日、花街では夜になると、「お化け」という行事が行われます。
仲良しの若い芸妓・舞妓さんが、グループで仮装してお座敷を回ります。
「白浪五人男」「越後獅子」など伝統的なものに扮するグループもあれば、最近ヒットした映画の主人公やその年話題になった有名人に変身したり、歌舞伎のまねをしたりと様々な工夫をこらします。
踊りの振付も、衣装もそれぞれアイデアに富み、踊りに合わせた音楽もこの日のために各組用意し、仮装の芸を披露してくれます。
「春」の行事 →大石忌
都おどり 京おどり 一力亭
大石忌は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の七段目「祇園一力茶屋の場」で知られている、四条花見小路の角にあるお茶屋「一力亭」で行われる行事です。
大石内蔵助の命日、3月20日「一力亭」の仏壇には討ち入りそばや大石の好んだものが供えられます。
馴染みのお客さんだけを招いて、「深き心」を井上八千代師が舞い、芸舞妓3人が地唄「宿の栄」を舞います。
芸妓・舞妓さんたちにより抹茶や手打ちそばも振るまわれます。
祇園甲部歌舞練場
京都の春といえば都をどり。都をどりといえば祇園甲部の芸妓・舞妓さんが日頃のお稽古の成果を披露する祭典で、国内のみならず海外でもチェリーダンスとして知られています。
つなぎ団子の提灯の下、「都をどりはぁ~、よ~いやさ~」の掛け声で始まるまった第1回公演から今まで変わらずに続いています。
井上流家元の井上八千代師指導による、あでやかな井上流京舞が最大の見もので、4月のまる1ヶ月を通しての興行です。
毎年祇園甲部歌舞練場で行われるこの行事は、祇園だけではなく、京都を代表する春の行幕開けは、明治5年に開催された京都博覧会の付博覧として始事となっています。
お問い合せ 祇園甲部歌舞会 TEL 075-541-3391 FAX 075-525-3105
〒605-0074 京都市東山区祇園町南側
宮川町舞練場
宮川町では4月の第1土曜日から第3日曜日まで、東山女子学園と同じ建物内の宮川町歌舞練場で「京おどり」を開催します。
観客に楽しんでもらうことをモットーに、若柳流の家元が振り付けを担当していて、毎年趣向を凝らした舞台になります。
全体は七景に分かれていて、最後のしめくくりとなる第七景は「宮川音頭」の総踊りとなり、舞台が華やかな空気に包まれます。お問い合せ 宮川町歌舞会
TEL 075-561-1151~4
〒605-0801 京都市東山区宮川筋四丁目306
花街 - 祇園 -
けいこの成果を披露する芸舞妓ら(26日午前11時7分、京都市東山区で)
古都の秋を彩る祇園甲部歌舞会の「温習会」(10月1~6日)に向け、芸舞妓(げいまいこ)約50人が26日、京都市東山区の祇園甲部歌舞練場で、けいこの総仕上げ「大ざらえ」を行った=写真=。
けいこは、あでやかな着物姿の舞妓が上方唄「ひとつくずや」や、芸妓が義太夫「子の日の遊び」などを披露。京舞井上流の五世家元・井上八千代さんが振り付けや、立ち位置などを指導し、本番に備えた。
<京のひと 語る>「そうだ 京都、行こう。」
コピーライター 太田恵美(めぐみ)さん 57
京都。千年の昔から、時代におもねることなく、常にそのままの姿であり続けたこの街に、いつの時代も人は魅せられ、足を運び、人生を紡いできた。そして今、街は史上かつてないブームの只中(ただなか)にいる。今こそ、ゆかりの人々が語る「京都」に、耳を傾けてみたい。
今いざなう古の美
高校時代、友人らと胸に秘めた本音をぶつけ合ったという真如堂(左京区)。太田さんは「京都を憎んでいたころの象徴。でも、日が暮れるまで語り合うことが許された場所」と懐かしんだ
「京都」という印鑑があればよかったんです。ベタ褒めでも解説でもなく、シンプルに、旅人が感じるままに、「そうだ 京都、行こう」と。割と安易だったから、廃れず、古くならなかったのかもしれません。
旅情をそそられずにはいられない名所旧跡の風景に、響きも軽やかなコピーが踊る、JR東海のキャンペーン「そうだ 京都、行こう。」。1993年の開始時、3800万人だった京都市の観光客は、今や空前の5000万人が目前。太田さんが手がけるキャンペーンのCMやポスターが、〈京都ブーム〉を後押ししたのは、間違いない。
その第1弾は新聞の全面広告。秋の夕暮れの「清水の舞台」に、太田さんはこんな言葉を添えた。
「パリやロスにちょっと詳しいより 京都にうんと詳しいほうが かっこいいかもしれないな。」
バブルを経験して、仕事でパリとかロスとかに行ってたんです。「パリのあそこがおいしいよね」「ロスはどうだった」。そんなことを言い合ってて、ふと思ったんです。なんか格好悪い、自分の足元を知っている方がすてき、と。
生粋の京女。しかし、その足元たる京都については、何も知らなかったという。その理由は、思春期に抱いた屈折した思いから、説き起こさねばならない。
古い因習、狭い人間関係......。私にとって京都は悪でした。表面的には私、優等生でした。反発はあるのに、表に出せない。そんな自分が嫌だった。ここにいちゃだめ、とにかく京都を出たい、と願っていた。だから、この仕事で改めて京都を見つめた時、「碁盤の目」以外、何も知らない自分がいた。ちょっとまずかったと思いましたね。
これまで取り上げたのは延べ70か所以上。1か所につき4回は訪れ、身を置く。満開の桜、涼しげな清流、燃えんばかりの紅葉、凛(りん)と降り募る雪......。不惑を過ぎ、初めて、故郷の「圧倒的な美」を知った。