永遠の別世界をかいま見る 臨死共有体験 ‥ 3 | inca rose*のブログ

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「私は突然、マーサと共に、丘の上を歩いていました。私たちの周囲は光に包まれていました。普通の光ではありません。周囲の草花、大地、空など、すべてのものがその光で輝いていました。信じられないほど美しい光景でした。
これは天国、またはそれに近い所だと確信しました。あまりにすばらしい所だったからです。私は自分が50歳くらい若返ったのかと思いました。

私はそこで、マーサの亡き夫や、すでに亡くなった他の親戚らも見ました。みなが丘を下って、マーサに会いに来ました。丘の地形も草花もすばらしかったです。緑も衝撃的なほど輝いていて、目を奪いました。
マーサは生き生きと丘の上を動き回っていましたが、やがて私の腕を押して、『これ以上は来ないでね』という仕草をしました。いつもマーサの言うことは、その通りにしてきた私は、言われる通りにしました。すると私は、自分の肉体に引き戻されていました。耳の中のざわめきも聞こえなくなり、私は病室にいたのです」


この天的な領域はどうも、すでに死んだ者はそれ以上行けても、まだ死んでいない者はそれ以上は行けない、という一種の「境界」となっているようである。
マーサが優しくキャサリンの腕に触れたというこの証言は、そうした境界の存在を示す一例だろう。マーサは明らかに、キャサリンがそれ以上一緒に来てはいけないということを、示したのである。

臨死体験および臨死共有体験でみられる境界としては、橋、川、草木、その他があるが、キャサリンの経験のように、死んだ者から軽くつつかれたとか、「これ以上はだめだ」という仕草をされたなどの場合もある。それもまた、死んでいない者はそれ以上踏み込めない境界となっている。

臨死共有体験をした人々のうち、一体どれくらいの人々がこうした境界を経験しているのか。その明確なデータはまだない。しかし臨死体験研究協会が行なった、通常の臨死体験者1300例近くに及ぶ膨大な調査によれば、一度死んで蘇生した人々のうち約30%の人々が、体験中に「それ以上は行けない何らかの境界に達した」と証言している。彼ら臨死体験者たちと同様、臨死体験を共有した人々も、肉体に戻れてよかったというより、もっとあの天的な領域にいたかった、という人たちが多い。


7 . 遺体から上がる霧のようなものを見る

私が死に関する研究を始めて以来、私はしばしば、臨終の人の体から「霧のようなものが立ちのぼるのを見た」という証言に接するようになった。これは、臨終の床に立ち会った人々がしばしば証言しているものである。
その「霧」については、いろいろな表現がある。ある人々は、それを「白い煙のようだった」と言うし、他の人々は「蒸気のようだった」と言う。ときには、「人の形のようだった」と言う人もいる。

いずれの場合も、それが上のほうへ立ちのぼり、やがてさっと消え去ったという。
その実例として、ジョージア州のある医師の場合をみてみよう。彼は患者の臨終の際に体から立ち上がる「霧」を、二度、別の日に目撃している。以下、その両方の場合をみてみることによって、霧の経験について理解を深められると思う。


「私は6か月間に、臨終の患者から立ち上がる霧を目撃しました。彼ら患者は、亡くなったとき明るく光りました。目が銀色の光で輝いて見えました。また胸のあたりから、霧のようなものが立ちのぼり、空中で浮遊しました。
私にとっては時が止まったかのようで、その光景を目をこらして見ました。注意深く、近づいて見ました。霧は、深く複雑な構造を持っているようでした。幾つかの階層から成り、何かのエネルギーで脈打っていたのです。

でも私のこうした表現も、うまい描写ではありません。うまく言い表せませんが、水の中で別の水が動いているような、そんな感じです。
二度目に見たときは、私はさらに、何か見えない存在を感じました。あたかも、私のとなりに誰かが立っているような、そしてその存在は患者の臨終の時に備えている、というような感覚です。
その存在が何だったか誰だったかは、わかりません。しかし、それは患者を愛する誰かだったのではないか、とも思います。それがそのとき私の持った感覚でした」


じつはこの医師は、二度目の経験の数日後に、自分がひとりでに体外離脱してしまう経験を持った。その前に彼が二度の霧体験をしたのは、自分の体外離脱経験の準備とするためではなかったか、とも私には思える。体外離脱経験もまた、この医師の世界観を大きく変えるものとなった。彼は述べる。


「私が眠ろうとしていたとき、突然私は、ベッドに横たわる自分の体を下方に見おろしていました。二度の霧体験と、この体外離脱経験により、私は確信を持って、世界にはこの目で見える以上のものがあると言うことができます」


さらに別の例として、研究家ロバート・クルッカルが様々なケース・スタディを集めて1967年に出版した、『死後界の入り口の出来事』に述べられたものもある。


「その子が息を引き取ろうとしていたとき、私は病室に入って来ました。そのとき、その小さな体の上に、霧のようなものを見たのです。それは横たわるその子の体の形になって、ベッドの上空にありました。両者は、銀色に輝くひものようなもので、つながっていました。霧は、子どもの体の上空1メートルくらいのところにありました。霧はしだいに上昇し、体から1メートル50センチくらいの所へ移りました。その後しだいに直立姿勢になっていくと、やがて消え去ったのです」


死の際に見られたというこうした霧を、どう解釈すべきかは、私にはわからない。しかし「単なる幻覚」と片づけるのは難しいだろう。愛する者の死を看取る際に、それを見た場合は、とくにそうである。もしそれが幻覚ならば、死にゆく過程で見えるのがいつも霧だ、というのは道理に合わない。



◆臨死共有体験者が、体験を自分の宗教に合わせて変えてしまうことはないか?

人は、自分の臨死共有体験を言葉に出して物語る際、言葉や概念を自分の宗教的観念の中から選び出すものである。それは自然なことだ。
臨死共有体験の中で起きた出来事は、この世のものではないから、この世の言葉で表現するのは確かに難しい。それを何とかこの世の言葉で表現しようとするのだから、自分の宗教的語彙に頼るのは当然である。

しかし同時に、ふつう彼らは、自分の宗教的語彙でさえ、それらの状況を説明するには不十分だと感じている。彼らが経験したことは、ほとんど言葉に言い表せないものだからである。そういう状況で、ほかにどうすればいいのか?
人はこの種の強烈な体験をしたとき、まずそれを自分の知っている何かの概念や見方で解釈しようとする。それはとても自然なことだ。私たちは起こった出来事を、まず自分に説明しなければならないからである。

私が体験者からよく耳にしたのは、自分は臨死共有体験をしたとき、それまで教会で聞かされてきた天の世界の実在を身をもって体験した、という言葉だった。つまり、単に書物や説教を通して知識を得たというのではなく、文字通りその世界に足を踏み入れて体験したという。体験者は、臨死共有体験で見た世界は、宗教が扱ってきた世界と同一であるということを、まず認識する。それは彼らにとって、ときに驚愕するような事実だ。

私はこれまで、とくに宗教を持たないという多くの体験者とも話してきた。しかし彼らは、自分が臨死共有体験で見た世界は、宗教的な友人から聞かされてきた世界によく似ていたので驚いた、ということを語っている。
たとえば、彼らは愛する者の臨終の場で、天使のような存在を見たり、亡き親族を見たりしたという。その臨死共有体験の中で、神秘的な光を見たり、強い愛情を感じたとも述べている。こうした体験は、宗教を持たない人や無神論者、反宗教の人にとっては、なおのこと驚異であるに違いない。

無宗教者の場合、臨死共有体験中にかいま見た天的世界の光景を、どう理解していいのかわからずに、困惑することがある。
たとえば、無宗教の人がこう言うのも珍しくない。「母を迎えに天使のような者が来るのを見ました」あるいは「父とトンネルの中を上げられていくとき、そこに父を迎える天使のような一群を見ました」「そこで私が見た存在を人々はイエスと呼ぶかもしれません」

私の感じているところでは、宗教者であれ無宗教者であれ、すべての臨死共有体験者は、同じ諸要素を体験しているが、それをどう言葉に表現したらいいのか迷っている。一般的に言えば、体験者はみな、自分に馴染みのある言語や語彙を使って、表現しているのである。
しかしそうはいうものの、たとえばキリスト教徒だからといって、自分の体験を無理に聖書に合わせて説明しようとする人にも、私はほとんど会わない。

ある人は、イエスや他の宗教的存在に会ったと言うが、そう言わない人々もいる。彼らは宗教的存在を見ていないのに見たとか、会っていないのに会ったとか言って、事実をねじ曲げようとはしていないように思える。

つぎは、父の臨終の床に付き添った息子の体験談である。

「私の父は、がん闘病のすえ、安らかに息を引き取りました。私はずっとその病床に付き添っていました。その最期のとき、今も私には理解できない奇妙な出来事がありました。
父が息を引き取る前の4時間、私にはハミングのような、あるいは音楽のような響きが聞こえていたのです。それ以前も、そのあとも聞こえないものでした。その響きはつねに楽しそうで、音楽のように感じました。確かに音楽でした。それは父から聞こえてきたものではなく、むしろ父を通して聞こえてきたもののようでした。あたかも父と私は、二人一緒に別世界のどこかで会話を楽しんでいるかのように感じました。

父は明らかに、私が知覚できない何かを見ているようでした。たとえば、亡き母を見ながら会話しているようでした。
ハミングは、電子ピアノの音色にも似ていましたが、文字通り空中をエネルギーで満たしていました。このことを私は、ベッドぎわの誰にも言いませんでした。というのは、その音楽は別世界から来たものだということが、すぐに明らかになったからです。

私は父の臨終の際、その手をにぎっていました。1分もしないうちに、その音楽は聞こえなくなったのです。そのとき、私を霊的世界へつなげていた糸のようなものが、切られたように感じました。しかしその糸が切られたのは、一時的なものだということもわかっています。どこからか聞こえていたあの音楽は、死後の生命が存在することを私に確証させるものでした。いずれ私もその世界へ行って、母と父に再会することになるのです」


これらを語った彼らは、いずれも非常に宗教的なキリスト教徒であるが、その体験を語るのに、自分の宗教特有の名称や言葉を何一つ使っていない。臨死共有体験をしたほとんどの人にとって、体験自体が非常に強烈であるため、宗教特有の表徴は思い浮かばないでいる。その点はとても重要である。














『永遠の別世界をかいま見る     臨死共有体験』
著 . レイモンド・ムーディ/ポール・ペリー

から抜粋。