【今できること……9.97. 】
こんにちは (*´∀`*)ノ
ご訪問いただき、どうもありがとうございます。
今回は、誰もが一度は名前を聞いたことのある、あの「ナポレオン・ボナパルト」についてお話していきたいと思います。
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ナポレオン
「マレンゴ」にまたがり、サン・ベルナール峠を越える
この絵、実はわたしのお気にいりなんです。「何故?」って、言葉にするのは難しいのですが、どこか象徴的な力強さを感じるんですよね。やっぱり「ナポオレン」という人物がもつ独特のオーラのようなものが、今もなお放たれているのかもしれません。
これからナポレオンにまつわる思想や哲学を調べるつもりなんですが、この絵をきっかけにナポレオンについてちょっとだけお話させて下さい。
ナポレオンといったら……何を連想しますか?
やっぱり「私の辞書に不可能の文字はない」ではないでしょうか?
他には「睡眠を必要としなかった」とか、実はオタクだったとか、また数学が得意だったとも言われています。そして実は純粋なフランス人ではなく、その直前に占領されたコルシカ島の出身だったとか。
……と、わたしはパッと思いつくのはこの程度でしょうか……。
そういえば、映画「ナポレオン」も、すでに公開されているようなので、機会があれば観てみようと思っています。
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ナポレオンが残した名言
ナポレオンは、物事を理詰めで推し量る冷静さと分析力で知られています。
幼い頃は、フランス本土から遠く離れたコルシカ島の出身であったことから、強いなまりが原因でクラスメートにからかわれることも多かったそうです。
その影響もあってか、少年時代のナポレオンは内向的で、いわゆる“本の虫”のような読書好き子どもだったとも伝えられています。
そんなナポレオンが残した数々の名言は、現代社会でもビジネスや人生の場面でも、たびたび引用されるほど、時代を超えて人々の心に響いています。
では、ナポレオンの名言の中から、いくつかを抜粋して紹介します。
◆,「余の辞書に“不可能”の文字はない」
- 意味:私にとって「不可能」なんて言葉は存在しない。
- 逸話:部下が作戦実行に及び腰になったときに、ナポレオンが発したとされています。「不可能という言葉はフランス語にはない」と、そんなふうにも伝えられています。自信に満ちた、まさにナポレオンの象徴として、今もなお語り継がれています。
◆,「兵は胃袋で進む」
- 意味:軍隊は、食料がなければ動かない。
- 逸話:兵站の重要性を強調した言葉。ナポレオンは軍事天才であると同時に、補給と食料管理にも最新の注意を払っており、この思想は現代の軍事戦略にも影響をあたえています。また、彼は缶詰技術の開発も支援したとされています。
◆,「最も危険な瞬間は勝利の後にやってくる」
- 意味:油断や慢心こそ最大の敵。
- 逸話:アウステルリッツの大勝のあと、ナポレオンが戒めとして語ったとされる言葉。勝った直後ほど組織は緩みやすいという警句で、現代でもビジネスなどで引用されています。
◆,「歴史とは、勝者によって書かれる嘘である」
- 意味:歴史とは客観ではなく、支配者の視点で語られる。
- 逸話:ナポレオン自身が敗れたのち、このように語ったと言われています。彼の自己イメージの強さ、また情報操作への関心が垣間見える言葉です。
◆,「寝ずに働け、そうすれば誰よりも前に出られる」
- 意味:努力こそが成功の鍵。
- 逸話:ナポレオンは「1日に3~4時間の睡眠」しか寝なかったと言われています。実際には短い昼寝で効率的に休み、圧倒的な集中力で日々をこなしていたようです。
◆,「真に恐れるべき敵は、屈強な敵ではなく、無能な味方である」
- 意味:怖いのは、外の敵より、足を引っ張る味方。
- 逸話:ナポレオンの発言かどうかは所説ありますが、「ナポレオンの名言」として取り扱われることが多くあります。どんなに優れた戦略でも、味方の判断ミスや暴走で台無しになることを、何度も経験してきたのかもしれません。「有能な敵よりも、愚かな味方が組織を破壊する」……どんな組織でも通じる真理かもしれませんね。
◆,「熟慮する時間を取れ。行動するときが来たら、考えるのをやめて実行せよ」
- 意味:よく考えるのは重要だが、決断すべき時が来たら迷わず動け。行動の遅れは最大の失敗にもつながるという、ナポレオン流の「決断の哲学」
- 逸話:。ナポレオンは軍事作戦でも政治判断でも、事前には緻密な準備を怠らなかった一方で、一度「時期が来た」と判断すれば即断即決を信条としました。この姿勢が、数々の電撃的勝利や制度改革につながりました。日本のことわざで言えば「思い立ったが吉日」「時機を逸しては後悔する」があります。
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フランス革命のその先へ
ナポレオンといえば「戦上手の天才軍略家」として広く知られています。けれど、驚くべきことにその才能は戦場だけにとどまりませんでした。彼は激動のフランスで、政治の世界でも大きな革命をもたらしていくのでした。
はたして、彼はどんな改革に着手していったのでしょうか。
時は1789年。
フランス革命が勃発し、国王ルイ16世は処刑されます。「自由・平等・友愛」を掲げる共和国が誕生しましたが、その理想とは裏腹に、国内は混乱の連続。内乱や戦争が続き、やがて「恐怖政治(ロベスピエール時代)」に突入していきました。
その後、1795年に「総裁政府」が誕生しますが、これもまた期待外れに終わり、国民の不満はむしろ高まるばかりでした。
そんな混迷の時代……その政治の空白を埋めるように登場したのが、若き軍人「ナポレオン・ボナパルト」です。
ナポレオンは、クーデターを起こし、政権を掌握。当初は「第一統領」として政治の実権を握り、そして1804年、国民投票を経てついにフランス皇帝ナポレオン1世として即位します。
ここから「政治家ナポレオン」としての偉業の一部を紹介します。
統領政府の樹立から皇帝即位
ナポレオンはまず「第一統領」として、1799年に統領政府を主導。
1802年には、終身統領になり、1804年には皇帝ナポレオン1世として即位。革命で倒れたはずの「君主制」を、形を変えて復活させたのです。
ナポレオン法典の制定
フランス革命の理念である「法の下の平等・財産権の保護・個人の自由」を土台にした法律を整備。
法の不統一を解消し、今日のフランス民法の礎となりました。
この法典はヨーロッパ諸国にも広まり、「法による国家」のモデルとなります。
宗教との和解:コンコルダート
革命で協会との関係が悪化していたフランス。
ナポレオンはローマ教皇と和解し、「国家が教会を管理する代わりに、教会の存在を認める」という形にします。
これにより、カトリック信者の支持を回復し、国内の安定につながりました。
経済・金融政策:フランス銀行の設立
インフレや財政混乱が続く中、ナポレオンは中央銀行(フランス銀行)を創設。
公債の整理や信用制度の安定を図り、国家財政を立て直しました。
教育制度の整備
革命後の混乱でバラバラだった教育を再構築。
中等教育(リセ)や高等教育機関(大学)を整備。
優秀な官僚や軍人を育成し、国家主導の近代教育制度の基盤を作りました。
身分制度の終焉と能力主義の導入
革命以前の「貴族>平民」という固定された身分制度を廃止。
代わりに「能力のあるものが出世できる仕組み」を整え、庶民にもチャンスを開きました。
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ナポレオンの政治改革の「ベース」
ナポレオンの数々の偉業……その背景には、驚くような不器用で人間味あふれる一面がありました。彼の思想や改革の根底には、理性だけでなく、感情や直感、そして彼自身の体験から生まれた哲学でした。
これほどの才能を持つ彼でさえ、愛においては報われぬ孤独を抱えていました。最初の妻ジョゼフィーヌは浮気癖があり、ナポレオンは戦地から情熱的なラブレターを何通も送ったものの、彼女は封をあけることもしなかったといいます。権力者としての孤独と、愛するものに振り向いてもらえない孤独……そう、ナポレオンはふたつの孤独を胸に抱いていたのです。
そのせいか、彼は仲間や部下には驚くほど情に厚い一面を見せました。とある戦の帰還時には、兵士ひとりひとりに温かいスープを手渡したり、戦功をあげたものには勲章に加え、家族への生活保障まで整えたとされています。
ナポレオンの思想・哲学
「秩序の中の自由」……理性と現実を武器に、理想を制度として形にし、改革の理念「自由・平等・友愛」を尊重し、混乱を嫌い、安定した統治と効率的な社会を築こうとしました。
人は能力で評価されるべきという信念を持ち、感情や直感も政治判断に織り交ぜた、実践主義の思想家でした。
1,秩序と安定を重視する現実主義者
自由や理想を掲げるだけでは国家は成り立たない。現実を見据え、秩序を維持しなければ自由も維持できないという考え方。
ポイント:
どんなに高い理想でも、それを実現するためには「安定した土台」が必要。
これは、社会でも仕事でも同じ。混乱や感情論に飲まれず、持続可能な仕組みと冷静な判断力が必要だと教えてくれています。
2,革命保守としての思想
革命によって得られた理念(自由・平等)を、破壊的にではなく制度として守り抜くこと。「破壊し続ける革命」から、「維持し発展させる革命」へ。
ポイント:
変革とは、壊すことではなく「大事なものを守りながら進化させること」でもある。
環境・教育・政治など、どの分野でも「価値のある土台」を活かす姿勢は重要です。
3,能力主義(リクトクラシー)
人は出自や身分ではなく、実力と努力で評価されるべき。それが社会の健全な流動性と公平感を生み出すという信念。
ポイント:
「評価はコネではなく能力で」。
ナポレオンの信じたこの原則は、今なお多くの組織改革や教育理念の基本になっています。不遇でも、才能があれば道は開けるという希望でもあります。
4,啓蒙思想と合理的な国家構想
ナポレオンは、理性をもとに社会を設計しようとする啓蒙思想に深い影響を受けていました。特にヴォルテールの寛容と宗教批判、ルソーの人民主権論、モンテスキューの制度思想などを現実政治に応用し、法や教育、行政を合理的に整えていきます。
ポイント:
ナポレオンは感情や伝統に流されず、制度とデータに基づいて国家を再設計しました。
この姿勢は現代でも、「問題を感情論ではなく、仕組みと知性で乗り越える」という視点として活かせます。
不透明さを排し、誰にでも開かれた仕組みをつくること……それが、彼が目指した“理性による社会”でした。
5,国家を「軍事・行政・教育」で築く
国家の持続的な力は、**安全保障(軍)・統治能力(行政)・未来人材の育成(教育)**の三本柱で成り立つ。
すべてを「整えて回す仕組み」こそが、国の安定を支える。
ポイント:
個人の生活にも応用できる考え方です。
たとえば、自分の健康(防衛)、時間管理(行政)、学び直し(教育)といった“自分という国家”を支える要素をバランスよく保つこと。
ナポレオンは、そのバランスを政治で体現したのです。
6,皇帝を国民の代表とした考え
血筋や神の名による君主ではなく、「国民の選択」によって立つ皇帝という新しい正統性の形。言い換えれば、カリスマでありつつ、民意に支えられるリーダー像。
ポイント:
現代のリーダーにも問われるのは、「誰が任命したか」ではなく、「誰のために存在するか」。
ナポレオンのように、民衆の期待に応える形で正統性を構築する姿勢は、リーダーシップや信頼構築のヒントになります。
番外,「総裁政府」の制度思想
フランス革命で王政が倒された後、急進派の恐怖政治を経て1795年に設立された「総裁政府」は、革命の理想を守りつつも、独裁を避けるために権力を分散しようとした体制でした。5人の総裁による集団指導制を取り、立法府とも権力を分け合う構造になっていました。
ポイント:
「権力の集中は危険だ」というモンテスキュー的思想(権力分立)に基づきつつ、同時に「王政の復活を防ぎたい」という共和派の危機感が込められていました。
結果的には、誰もが責任を回避し、指導力に欠ける体制となり、汚職・政治的混乱・軍の台頭を招きます。
この制度の欠陥を目の当たりにしたナポレオンは、「理念は必要だが、統治には決断力と一元的な責任体制が不可欠だ」と確信するようになります。
それが後の統領政府から帝政への流れを生み、彼自身の現実主義的かつ制度志向の思想につながったとされています。
民主政治の抱える課題
この総裁政府ですが、実は現在の日本の「三権分立構造」が本来の機能を果たしていない点と重なる部分があります。たとえば、立法と行政の境界が曖昧で、与党が内閣を実質的に支配している現状では、国会(立法府)が行政権をチェックするはずの役割を十分に果たせていません。
ナポレオンが執った対応は、すなわち、「政治の空白を埋め、行政の中枢を一人で担う」という決断は、ナポレオンという例外的なカリスマと能力があったからこそ可能だった特例であって、誰にでも適用できるとは言い難いモデルです。
もしも、一般的な人物に同じような権力を与えれば、独裁化のリスクは極めて高くなります。だからこそ、現代においては、たとえトップに強い決定権を持たせるにしても、その権力を制度的に抑制・監視する手立てが不可欠です。
つまり、「決定権」と「制御力」を両立させる制度設計こそが、現代の民主主義に求められている課題なのではないでしょうか。
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ナポレオンの生涯
ナポレオン・ボナパルト(1769–1821)は、フランスの軍人・政治家で、のちに皇帝となった人物です。1769年8月15日に、コルシカ島で生まれる。軍事学校を経て砲兵士官となり、士官学校では通常の在籍期間が4年程度のところを11ヶ月で卒業する。フランス革命期の混乱の中で急速に出世。24歳で准将(じゅんしょう)になりました。
1796年にはジョゼフィーヌと結婚しました。ナポレオン軍は連戦連勝し、イタリア遠征でオーストリアを破り、膨大な戦利品を持ち帰り、さらに名声を高めます。しかし、続くエジプト遠征では軍事的には失敗しますが、科学調査も行い『エジプト誌』として後に成果を残しました。1799年、帰国後にクーデターを起こして政権を握り、第一統領としてフランスを統治。1804年には皇帝に即位しました。国内では民法典(ナポレオン法典)の制定、フランス銀行の設立、教育制度の整備など、近代国家の基盤を築きました。
対外的にはイギリスとの抗争が続き、海戦では敗北しますが、陸戦ではオーストリア・ロシア・プロイセンに勝利し、勢力を東欧まで拡大します。しかし、スペインでの泥沼の戦争と、1812年のロシア遠征の失敗が大きな転機となりました。
1814年に退位し、地中海のエルバ島に流されますが、再びフランスへ戻り政権を奪還。しかし「百日天下」ののち、1815年のワーテルローの戦いで敗れて再び退位。今度は南大西洋のセント・ヘレナ島に幽閉され、1821年に51歳で死去しました。
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