こんにちは (*´∀`*)ノ
いつもご訪問ありがとうございます。
ここ数日、急に暑さが増してきましたね。季節の変わり方が、以前とはどこか違ってきているように感じます。これも温暖化の影響なのでしょうか……
体調を崩しやすい時期ですので、どうかくれぐれもご自愛くださいませ。
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倫理・行動規範を考える
前回の投稿では、「政治倫理」とは何かというテーマに触れ、特にその判断が多くの場合、政治家個人の倫理観や価値判断に委ねられている点に焦点を当てました。現在運用されている政治倫理審査会制度とは、1985年、いわゆる「ロッキード事件」の教訓を踏まえて設置されたものです。
皆さんは、これについてどうお考えでしょうか?
「政治倫理」とは、本来制度として明文化され、すべての政治家に共通する最低限の行動基準として運用されるべきものではないのか?
それとも、政治家一人ひとりの信念や倫理観に委ねられ、問題が起きた際に、政治倫理審査会を開いて説明責任を果たすことが妥当なのか?
現在の制度運用を見ていると、政治家の行動基準は、あくまで個人の裁量に委ねられている側面が強く、その行動を抑制すべき政治倫理審査会も、実質的には「追認」するに留まっているように見えます。
実際、先日行われた審査会では、野党側が主張していた「審査会の規程に基づく行為規範の順守勧告」を行うことも、自民党側が慎重な姿勢を示したことで見送れたと報じられています。
これは単なる制度の問題に留まらず、民主政治における「責任」と「透明性」のあり方そのものに深く関わるものだと感じます。
前回の内容では、触れきれなかった部分もあったので、今回も引き続き、「政治倫理」、「行動規範」について考えてみたいと思います。
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①【他の委員からの申立てがあった場合】(第2条)
- 審査会委員の3分の1以上の申立てが必要。
- 申立てには「違反があることを示す文書」が添付され、会長に提出される。
- 会長は速やかに審査会を開催しなければならない。
②【当事者である議員自身からの申出があった場合】(第2条の2)
- 「不当な疑惑を受けている」として、自ら審査を求める場合。
- 疑惑の疎明資料を添付して申し出れば、原則として審査される。
- ただし、明らかに審査の必要がない場合は却下も可能。
- 行動規範の遵守を促す勧告
- 一定期間の登院自粛
- 役職(委員長や会長など)の辞任勧告
- 勧告を行うには、出席委員の3分の2以上の賛成が必要。
- 一般的な議決には出席委員の過半数の賛成が必要。
- 審査対象となった議員には必ず弁明の機会が与えられます。
- 必要に応じて、国務大臣、官房副長官、関係機関などの出席や資料提出、参考人の意見聴取も可能。
- 原則として非公開(傍聴可能)。
- 審査会の判断で傍聴を許すこともあるが、会議録の閲覧も制限されている。
- 閲覧は審査終了後や特定の場合に限定されるため、国民への透明性には限界があると言える。
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政倫審:制度としての評価
日本での政治倫理審査会は、議員の行動が「行為規範」や法令に著しく違反した場合に、その責任の有無を審査する仕組みです。
審査会は、「審査の申立て」「会長の裁量」「委員の多数決」によって運営されており、議会内部の自浄作用を前提とした制度設計となっています。
しかしながら、この制度にはいくつかの構造的な限界や課題が指摘されています。
● 出席や説明が任意であり、審査の実効性に疑問が残る
● 勧告には法的拘束力がなく、実際の処分や責任追及には直結しない
● 非公開原則により、審査の過程や判断の妥当性が国民から見えにくい
さらに重要なのは問題として、審査を行う委員が、すべて国会議員の中から選ばれているという点です。つまり、「議員が議員を審査する」構造のもとでは、どうしても内向きな判断や、身内への配慮が入り込みやすくなります。
その結果、どれほど厳正な倫理判断が求められていても、実際には政治的な思惑に基づく判断として処理されてしまう傾向が強く、これまでも審査の信頼性や公平性に疑念を招いてきました。
本来、政治倫理とは、国民から信託を受けた立場にある者としての責任と自制を前提とした、極めて重要な概念です。自制という理念は尊重されるべきですが、現行制度のもとでそれを監視・抑制するには限界があると言わざるを得ません。
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日本国憲法と民主政治のあり方
日本では、政治倫理とはあくまでも政治家自身の「自制」に委ねられており、自己完結的な道徳意識に留まっているのが実情です。
しかし本来、政治倫理とは国民の信頼を前提とする公的な規範であり、その監視や運用には客観的・制度的な担保が必要とされるべきです。この点を「民主政治の理念」という観点から考えてみると、日本国憲法の前文には次のように記されています。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
と、このように憲法は「主権が国民にあり」「国政は国民の信託によって行われるもの」と明確に述べています。
つまり、政治家とは「国民の代表者としての責任を負い、その行動の正当性は、常に国民の視点によって評価されなければならない」という立場が示されています。
にも関わらず、現行の政治倫理審査会制度は、「議員が議員を審査する」という内向きな構造に留まり、その判断も非公開・無制裁に近い形で処理されている現状は、国民主権の理念に相反していると言えるのではないでしょうか。
そして、こうした制度の構造を変える権限をもつのもまた「国会議員自身」である事実は、見逃せない点です。つまり政治倫理の審査制度が「議員による議員のための仕組み」として設計され、その変更すらも自らの意思に委ねられている以上、結果として議員を擁護する体制が堅持されている。このような自己防衛的な制度構造こそが、日本の政治における不信や腐敗を生み出す根源のひとつとなっているのではないでしょうか。
この構造改革を率先して進めることのできる立場にある日本のトップが、かの田中角栄氏の「愛弟子」とも称された、石破茂現総理大臣であるとすれば、それはなんとも皮肉なことであると同時に、日本の未来がなおも深い闇に包まれていることを象徴しているようにも思えます。
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これからの政治倫理のあり方
まず、「自制」という理念に基づく現在の倫理観においては、政治家自身が自らの身を切る覚悟をもって、自律的に行動する意思が不可欠です。
かつて、吉田松陰らが目指した理想の「大和の国」には、そのような自己統制を前提とする行動規範として「士規七則」という教えが存在していました。
侍とは、自らを一振りの剣のように鍛え、常に己を研ぎ澄ます厳しさと覚悟を、生き方そのものに宿す存在でした。しかし、悲しいかな、現代の日本において、果たしてそのよう「侍」と呼べるような政治家が、どれほど存在しているのでしょうか。
もちろん、海外の制度や仕組みに倣うことも、一つの有効な選択肢でしょう。
倫理監視を担う独立した第三者機関の設置や、政治家による倫理宣誓制度の導入など、各国の取組みには、私たちが学ぶべき多くの示唆が含まれています。
しかし……
やはり最後に求められるのは、日本の未来をしっかりと見据えた政治改革に、真摯に向き合う覚悟を持ち、国益と国民のためにその全てを捧げる、そんな理想と信念を持つ政治家の存在にほかなりません。そうした人物の出現なくして、真の変革が起こり得ないからです。
もし今もなお、日本の政治がバブル経済期を「国力のピーク」と捉え、その頃の延長線上で理念や制度を理解しているとすれば、それはもはや、過去のノスタルジーに縛られた惰性的な統治にすぎず、未来を切り拓く希望には成り得ないでしょう。
民主政治とは、常に「道半ば」にある存在です。それは決して完成されるものではなく、時代の変化に応じて流動し、最適化され続けなければならないものです。
政治倫理もまた、制度化されたことで満足するのではなく、その本質が絶えず問い直され、新たな倫理基準に基づいて再構築されていくことが求められているのではないでしょうか。
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わたしのような未熟なもののことばが、国の中枢に届くことはないかもしれません。
それでもなお、このささやかな声が、いつの日かこの国の未来の礎になることを、心から願っています。
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