ここへ来てアッという間の展開で〈島本さん〉のモデルが判明!
「国境の南、太陽の西」の島本さんの存在がこんなに早く解明されると思っていませんでした。
これまで村上春樹小説を読み込んで来た私は、村上があれを書いたときの心模様、こう考えた末ああなったのだろうという具合に思考の道筋を営々と追って来ました。
島本さんに関してああかこうか多少試行錯誤したまま時間が経っていました。
1992年「国境の南、太陽の西」刊行当時には分かった読者も少なくなかったのかも。それを公表しなかったのは、皆さん、人が善かったからというより(それもあるかも)SNSだのなんだの素人が発信出来るツールがなかっただけかも。
と気を持たせてからのご開帳です。
「国境の南」がメキシコへの道を歌っていたでしょう?
「国境の南、太陽の西」の島本さんは、メキシコ、インディオの女性でした。
それも8歳くらいの少女です。
村上春樹は、物売りのその少女との出会いをこう綴っています。
一人だけ、はっとするくらい綺麗な8歳くらいの女の子がいて、僕はその子から布の袋を買った。
容姿に引かれて手作り品を買おうとしたが、その少女は商売にも長けており値引き交渉(それが慣習)は難航。
ようやく決まった額にポケットの小銭は少し足りなくて、
それを言うと、
女の子は僕の顔を、じいいいいいっと見ていた。
そして、村上春樹は考えたのでした。
そのときの彼女の目の中には、なにかしら僕の心を揺さぶるものが存在していたように思う。誰かとそのように真剣に目と目を見合わせたのは、考えてみれば、僕にとってものすごく久しぶりのことだった。五百ペソ(二十円)のお金をめぐって僕らは長い時間、じっと相手の目の奥をのぞきこんでいたのだ。(略)それは僕とその女の子のあいだのコミュニケーションの問題であり、心の響き方の問題であったのではないかという気がする。
これはそのまま、「国境の南、太陽の西」のモティーフです。
ハジメが「島本さんの目の奥をのぞき込む」行が繰り返しでてきて強い印象を残します。
「国境の南、太陽の西」の骨子を表した文章と読んでも的を射ているかと思います。
島本さんが小学校の同級生として登場したのには、こうした必然性があったのですね。
その「メキシコ大旅行」の最後に、松村映三の撮ったインディオの少女の笑顔のポートレートが載ってます。それが、「はっとするくらい綺麗」かどうかは見る人によるかと思います。私は丸い頬が愛くるしくて憂いを帯びたところが見当たらないなと思いますが。
そして、五百ペソはその少女にとって買い手の目をじいいいいっと見るほどの問題でもあって、それと、きっと初めて見たであろう日本人男性の顔が物珍しかったのでしょうね。