村上春樹の世界観がよく表れていると思う記述が、「辺境・近境」ー〈メキシコ大旅行〉の中ほどにあります。

メキシコに海原越えてスペイン人が侵略にやってきたのは1500年代だそうです。

先住民族インディオを武力で屈服させ奴隷化した・・・インディオが完全にスペイン人に征服されたとき、立ち上がったのがキリスト教宣教師たちでした。その力添えもあって奴隷制度はなくなりました。しかし、圧倒的格差社会の最底辺でインディオたちの一部は今でも裸足で貧しい伝統的風俗習慣を守っているとの行を読んだとき、こういう状況は語感の似ているインディアンの場合ばかりでなく、アフリカの事情とも共通していることが痛切に思われるのでした。

村上春樹がメキシコの旅から感じ考えたことは、↓この映画を見て私が思ったこととシンクロします。

 

 

 

私たち日本人の立ち位置はそこでは傍観者のように一歩下がったものですが、一呼吸おくとそれが自らに切っ先を向ける刃となって立ち現れます。

 

村上春樹は、「メキシコ大旅行」におけるあれやこれやの諸々を順次描写する中で、欧米人たちの見るインディオとは違う姿をインディオに見ることを悟って行ったようです。つまり種族的類似を。

日本に暮らす私たちもまた地面に暮らす種族であり自然の中で自然と共に生きてきたことを本能的に知らされるというか、そういった共通認識を種族的に持っていることを。

村上はこう書いています。

合衆国で暮らしていると、やはり自分は余所で暮らしているんだという思いはいつもある。(略)我々を取り囲んでいる情景が視覚的に「余所」なのだ。そこでは情景が、潜在的記憶として我々の心にじかに、理不尽に訴えかけてくるということはまずない。(略)

でも僕がチアパス(バと書いたけどパでした。文庫のカタカナ点と〇は見分けにくい)の山の中でふと感じたのは(略)もっとずっと遠くの方まで連綿と繋がっていてできあいの言葉ですんなりと表わすことのできない種類の共時的心持とでもいうべきものなのだ。

 

もっとも、これは1992年7月の紀行ですから今では多少違っているでしょうか。

 

さて、メキシコとは、ナットキングコール歌うところの(録音されていない?YouTubeで聴いたけど)「国境の南」ですから、「国境の南、太陽の西」には、このインディオの夢が完璧に関与しているはずです。だって「国境の南、太陽の西」は92年刊行の作品ですから。