全くあてはありませんでした。こんな時に知り合いを頼るとも思えませんでした。


もしかしたら、仲のいい友達や知り合いになら相談しているかも、ということで、ごく少数に限定して母の友人に連絡を取りました。もちろん、他言しないでくださいと念を押して。


誰も行方は知りませんでしたが、そちらからも連絡を取って頂けることになりました。


1日目はまったく連絡もなく、携帯も繋がらないままでした。


眠れない夜をすごしました。


メールならもしかしたら見てくれるかも、と思い、傷つけてごめんなさい、すぐに帰ってこなくてもいいから無事を知らせてください、と何度もメールを送りました。


丸2日経った明け方、母からメールが来ました。


一人で何もかも捨てて生きていこうと思ったけれど、自分には経済力もなく、どの土地に行ってもその土地に簡単に入り込むことなどできず、自分の甘さが分かりました、帰ります、ということでした。


その時すでにうつ病にかかっていたことが後から分かりました。


帰宅した母は、私にも悪いところがあった、これからはまずそれを改善していく、とりあえず離婚は保留にして頑張ってみたい、と言いました。


父はその日、どこかに行っていました。


母が帰宅し、しばらくすると父も帰宅しました。


ベロベロに酔っ払っていました。友人を含め、野球の練習に行っていて、その後宴会をしていたのだそうです。


母がいるのを見て、あら、帰ってきたの、と言いました。


母はショックを隠しきれない様子でした。

自分が行方不明になっても、この人はいつもどおりの生活ができるんだ、という感じの顔をしていました。


その後、母が、私も悪かったです、これからは悪いところを改善していきたい、というようなことをつらつらと話し始めました。


父は、「いや俺はね、お母さんが言ってること分かるんだよ。お母さんの言ってることは正論なんだ。でもいつも正論が通るわけじゃない。俺はよかれと思ってやってるんだよ」


ろれつの回らない舌で、何を話しているのか、それまでの空気ががらりと変わりました。


空気を変えなきゃ、と思いました。


だからさ、お父さん、お母さんも反省するところがあったみたいだから、これからはみんなもっとお互い協力して、話を聞いたりするようにしようよ、とまとめにかかりました。


「はっ、俺が今までやってなかったってことね。足りないってわけですか」


そうじゃない、何をやったからいいとかこれをやってくれとかそういうことじゃなく、お互い理解しあう気持ちで新たに始めようって言ってるの、と少し語気を強めて言いました。


「あ、そうですか。はいはい。じゃあそうしましょう、mikuがそういってるわけだし」


・・・・


お母さんに何か言いたいことはある?と聞くと、


「ないよ、とくに」


と言ったあと、


にこっと笑って


「帰ってきてくれてありがとう」



背筋ゾクッとするような、心が寒々とするような、そんな感覚がしました。

誰も何も言いませんでした。


私はアメリカで大学を出て、そのまま現地で就職しました。


結局2年半勤めて帰国したのですが、仕事は激務で、周りからは散々、こんなひどい会社は見たことないと言われる始末でした。


月120時間以上の残業はすべてサービス残業、私は、購買部長、人事部長、経理部長、営業、通訳、翻訳、秘書業務をすべて兼任していました。


それでもいろいろ任されることにやりがいを感じたこともあって続けてきましたが、2度目に胃潰瘍になったとき、そろそろ退陣せねば、と思い、退職を決意しました。


20代前半の頃は、絶対に日本の社会では働けないと思っていましたが、祖父に会いに2年半ぶりに帰国した時、あ、今なら東京でやってみたいかも、という気持ちが起きたこともあって、思い切って退職と同時に帰国しました。


帰国して2週間で、母に話がある、と言われました。


離婚しようと思う、と。


私達姉妹3人は、いいんじゃない?お母さんの人生だから、自分の幸せのために生きたほうがいいよ、と言いました。本心でした。


弟は税理士試験を目前にしていたので、彼にはまだ言わないで欲しい、ということでした。


何日かたって、両親が私のいるその場で離婚話の続きを始めていました。

事務的なこれからどうするという話でした。


私は父に、どうしてお母さんがそうしたいか理由は知ってるの?と聞きました。


父は、「知らないけど、前から俺のことを避けてたみたいだったから、いつかその日が来るかなと思ってた。それでその日が来たんだと思った」と言いました。


理由は聞かなくていいの?なんとかできるかもしれないのに、理由も知らないまま、そうですか、それじゃあそうしましょうでいいの?お母さんもちゃんと説明しなくていいの?と言うと、


じゃあ何?と父。母は話し始めました。今まで言えずにきたこともすべて、洗いざらい話しました。


母もはっきり物を言う人ではありますが、少し被害妄想的というか、溜め込んでしまって、どうして私だけ、といった発想に陥りがちな人でもあるので、その場で母が全て話してくれて、私は正直ほっとしました。


母の幸せを願ってはいます。でもその時は私はまだわずかながら、もしかしたらまた皆で一緒に幸せに暮らせるかも、という期待も持っていました。


だから今までお互いに何も言わず・聞かずに来たのなら、これからはきちんと話し合える関係になれば、きっと変わるはず、きっとまだ修復できるはず、と思っていました。


父は、母がこれがこういう風に嫌だった、というたびに、「俺はそんなつもりじゃなかった」「そんな意味で言ったんじゃなかった」「お母さんの言ってることは正論だけど、正論をするのは難しいんだよ」を繰り返しました。


最終的に、「まぁ俺も自分の思うことを変えられない人だからな」と。


そっか・・・じゃあしょうがない・・・ね。


母にも悪いところがありました。母も自分の悪いところを棚にあげ、父を責めるのに、自分のことを責められると、私はこんなにやってきたのに、私が悪いっていうの?といったことを言うので、


それは違うでしょう、人を責めておいて自分の非は認めないなんて、と母に言いました。

今お互いが思ってることが分かったんだから、一度よく考えてみよう、と。


その夜、母が行方不明になりました。


父が出社すると、書置きがあり、「すべて私が悪かったです」と。


携帯も繋がらず、荷物もほとんど家に置いたままでした。


最悪のケースが頭をよぎりました。


前の夜に母にぶつけた言葉全てを後悔しました。


すぐに警察に行きましたが、着ている服なども分からないし、たとえ見つかったとしても、子供じゃないので本人が帰りたくないといえば無理に連れ戻すことはできない、といわれました。


でも早く見つけなければ、もしかしたら・・・

母(嫁)は祖父母が入退院を繰り返す間、毎日祖父母の家に通って家事をし、仕事もし、病院にお見舞いに行き、うちに帰ってうちの家事もしていました。


父はというと、何もしていませんでした。


時々病院に見舞いには行くものの、家事を手伝うわけではなく、家に残っている祖父か祖母に会いにいくわけでもなく、ごくごくそれまでの生活を続けていました。


だんだんに母のストレスと過重な負担もピークにさしかかり、父に、あなたの実親なんだから、せめて家に行って家事でも手伝ってあげてよ、と言いました。


それから父はいわれるがまま、祖父母の家に行くようになりました。


がんを患っている78歳の祖母が、一人で家事をやっている姿なんて、想像するだけでも胸がいたくなるのは、きっと私だけじゃないと思います。


祖父が退院することになりました。


手術はとりあえず成功。でも3週間も病院で寝たきりだった祖父は、すっかり弱りきっていました。


家に帰ってはきたものの、起きていることすらままならない。


祖母だって末期の大腸がんで、物もろくに食べられない。


そんな二人を置いて、父は、おじいちゃんが退院したまさにその日に、「じいさん退院したから俺もう必要ないでしょ」と言って帰ってきてしまいました。


祖父は、たまっていた洗濯物を片付けねばと、洗濯物が入った籠を持って、2階のベランダまで行こうとしたのですが、大きな手術のあとの3週間の寝たきり生活、


息も絶え絶えに、一段一段籠を持ち上げ、這って階段を上ったそうです。


その後すぐに祖父はまた倒れ、まもなく息を引き取りました。


献身的に看病していた末期がんの祖母を待たずして。


妹の誕生日は、祖父の命日になってしまいました。お前ら忘れんなよ、という祖父の最後のメッセージなのかもしれません。

私の27歳の誕生日はお通夜でした。


通常、お通夜とお葬式(火葬)の間は何日か開けるのが普通だそうです。

でも仏滅とかいろいろあるのでそういうものを加味して決めるのでしょうが。


祖父の時は、お通夜の3日後くらいがちょうどそれに合う日でした。


でもなぜか父はお通夜の翌日に葬式-火葬をしたがっていました。

葬儀屋がそれでは早すぎるといっても、頑として聞きません。


私は死んだ2日後に火葬なんて、早すぎる、別れたくないと思っていたので、どうしてだろう、と思っていました。


お葬式の日、最後のお別れで姿を見た時、しゃくりあげて泣いてしまいました。


ごくろうさま、と何度も声をかけました。


こうして亡くなってたった2日で、祖父は骨になりました。


どうしてそんなに葬儀を急いだのか、その理由が葬式の翌日に分かりました。


ゴルフに行きたかったんです。


しかも行けないと思って代役を立てていたのにも関わらず、葬儀の終わったその夜、葬儀会場で喪服のまま、代役の方に電話して、「やっぱり明日俺行くから、お前行かなくていいから」と電話しているのを聞いてしまいました。



私は父がどうしても許せません。


私のおじいちゃんとおばあちゃんにこんなことを簡単にできる父のことが人として許せません。


おじいちゃんはもういいよ、って言ってくれているのかもしれません。


でも私はこのことを思い出す度に、心臓をぎゅって掴まれる思いがします。


でもやっぱり父は言うんです。母方の母親(私の母方の祖母)に。


「もう俺には大事にできる親と呼べる人がおばあちゃんしかいないんだから、本当の親子と思ってなんでも言ってね」

父方の祖父母は、子供の頃から近くに住み、私達孫4人のことを、本当に愛してくれました。


特に私はおじいちゃんが大好きでした。


戦争が終わり、埼玉の田舎からトランク一人で上京してきて、仕事も住むところもなく、苦労したんだという話を、耳にタコができるほど聞きました。


横浜の港町でやっとありつけたタクシーの運転手の仕事。

70歳になるまでずっと働き続けました。孫に小遣いでもやれないと困るだろう、が口癖でした。


当時は外国人を乗せることが多かったので、アルファベットの本を買って、まず自分の名前を書けるようにならなきゃいけなかったんだ、ははは、と笑っていました。


いいものが好きな人でした。


高価なもの、質のいいもの、地位、名誉、そういったものが分かりやすく好きでした。


男は稼いで養ってなんぼだ、という考えの人でもありました。

でも祖母がちょっと手が痛い、というと家事一切を引き受ける人でもありました。

もうおばあちゃん、おひいさまなんだから、といつもからかっていました。


いつも喧嘩してるような口調で話し、声も大きく、ずけずけと物を言います。


お前は女なんだから、あいつは外人だから、という話し方をする人でした。


歯に衣着せぬものいいは敵も作りやすく、嫁に来た母は、本当に相容れない人、と一度だけぼやいたことがあるくらいでした。


でもお金も地位も名誉も、持っていたとしても決してひけらかしたりはせず、他人のそれをうらやましがるようなこともありません。


家族のためには惜しみなく労力も財力も注いでくれ、尚且つとても大きい愛情で包んでくれる、昭和の男でした。包むというよりは体当たり、という感じでしたが。


一度、タクシーの車内にセカンドバッグを置き忘れたお客さんがいました。


祖父は気付いてすぐに、その方の身分証からその方に連絡をし、職場までバッグを届けました。


そんなことはして当然のことなのです。


感謝してほしいからするのではなく、バッグがないと困るだろう、その一点から祖父は仕事よりも何よりも、それを優先しただけのこと。


後日、そのお客さんは、祖父の実家まで訪ねてきて、こんな時代にこんなに親切にしてもらったのは初めてです、と贈り物をして下さいました。


祖父はそのことを一切言いません。祖母がそっと教えてくれました。


22歳になった時、アメリカに行くと言った私に、「アメリカなんてよして、お前もう22なんだから結婚しろ」と言ってきた祖父。


あまりにもしつこいので、「分かった、じゃあ結婚してやるから今すぐ相手連れてきて」というと黙りました。ほらね、と言って笑いました。


アメリカから電話をすると、はしゃいで喜んでくれるのに、電話代がもったいないから、とすぐ切ろうとする祖父。


口は悪いけど、実直で、善人ではないけど、バカみたいに正直な祖父が大好きでした。


そんな祖父が去年、すでにがんになっていた祖母を看病していて、倒れました。


原因は、動脈瘤。


大腸付近の欠陥のなかに瘤のようなものができて、血流を妨げます。下血もひどく、すぐに手術が必要でした。


難しい手術でした。


元気だった祖父もすっかり痩せこけ、相変わらず口は達者なものの、見た目はすっかり老人になってしまったようです。


その頃まだアメリカに住んでいた私は、仕事の関係ですぐには帰れず、やきもきした日々を送っていました。


会社に無理を言って、日本に帰国していた私を待っていたかのように、

帰国して2日後の妹の誕生日、私の誕生日の前日に祖父は他界しました。


たった2日と思えないほど、私達はたくさん話し、今まで会えなかった溝を埋めようとしました。


じいちゃんは埼玉から上京してな、お金もなくて仕事もなくて、かまぼこみたいなでっかいプレハブ小屋に何百人て雑魚寝して、冬は真ん中のでかいストーブだけで暖をとってな・・・


もう散々聞き飽きたこの話を始めた時、涙が止まりませんでした。

今年、その弟が結婚しました。


奥さんはとってもかわいくて良い子。素敵な家族が増えてうれしい限りです。


結婚が決まった矢先、父方の両親、私の祖父母が二人とも亡くなりました。


住んでいた家が突然空き家になってしまいました。


母としては、多額に残っている私達の家の借金を返すためには、その家を売るしかない、と考えていたようです。

さもなくばとても返せる額じゃないと。


父に手続きを任せました。


長く住んでいた家なので、家具も全てそろっているし、まずそれらを片付けて家を空にするだけでゆうに1ヶ月はかかると思われました。


私としては思い出の詰まったおじいちゃん・おばあちゃんの家がなくなることは寂しい思いもしましたが、家も古いし、場所も悪く誰も住まないし、今の家のローンだけが残ってしまっても困るので、いつか売るものであれば、残しておくこともないか、と思っていました。


ある程度手続きが進むと、意外にいろんなプロセスを踏まなければいけないことが分かってきました。


でも実際買い手もついて、あとは片付けをするだけ、というところでした。


ある日突然、父は弟に、


「お前にあの家住まわせてやるよ。好きに使っていいよ。お前が住めばじいちゃんばあちゃんも喜ぶだろう」


と言いました。


そしてそれから一切の手続きを放棄しました。


弟は低所得でお嫁さんをもらうところだったので小躍りして喜びました。


そして一切の片付けは弟がお嫁さんと二人で行いました。



家のローンは相変わらず残っています。


普通に返していったら、父が70歳になっても月々16万円支払う計算です。



私には家のローンのことは関係ありません。


母は心配していたようですが、子供が口出すことではないと思うので、


心配している母のことは心配ですが、特にそれについては何も言いませんでした。


父は、


「それ(弟が住むこと)がじいちゃんとばあちゃんにとって一番幸せなことだから」と言いますが、


一度だけ飲んだ時に、


「俺の財産なんだから俺がどう使おうと勝手だろう」


と言いました。


そのとおりです、お父さん。


あなたの財産をどう使おうと、あなたの勝手です。

なんとなく心にもやがかかり始めた頃でした。

私には2歳下の弟がいます。


私が大学生の頃、バイトと飲み会に明け暮れていた私を見ていた弟は、「大学生って遊んでても卒業できるんだ!」という誤った認識を持ったようで、


大学1年の1年間での取得単位、4単位という奇跡を起こしました。(通常は20単位程度、4年間で大体120単位から140単位取得で卒業可能)


確かに私は遊んではいたけど、そりゃ単位を落とさない程度にはやっていたのよ、ということを、彼は1年の終わりに身をもって知ることとなりました。


その後も、特に必死で盛り返すわけでもなく、案の定、1年卒業延期に。


1年経ってやっと卒業、という時に、1つだけ取得できていない単位が発覚したらしく、さらに半年卒業が延期に。


5年半かけて大学を卒業した時、「俺は就職しない。税理士試験を受ける」と言い出しました。


無事フリーターになり、2年間時々バイトをするのみで、税理士の学校に通いました。

もちろん費用は自分で捻出できるわけがありません。


そして2年後、税理士試験の4科目あるうちの2科目を受験し、見事両方とも落ちました。

家族の誰もが、ここまでだ、と思いました。


大学入学から7年半、これで何も結果が出ないということが一つの答えだと。


そんな弟に父が言いました。


「うちの会社にくればいいじゃん」


私はいい気持ちがしませんでした。

弟のためにもならないと思いました。


でも会社のこと。

私には関係ない。口を出す権利もない。


父と二人で飲みに言った時、なんでそうしたの?と聞きました。


だってあいつは頭いいし、俺は使える人材だと思ったから、と言いました。

自分の子供だからじゃない、純粋にいい人材だと思ったからだ。

今年の試験の結果が12月に出るけど、その時にまた落ちるようなら、即刻クビにするつもりだ、と。


いい人材・・・


その頃には従業員も何人か増えていました。

当然、試験にも落ちている、何の資格も社会経験もない弟くんを歓迎する社員はいませんでした。


あいつはうちに来たほうが大変なんだ、俺は親だから甘やかしてるんじゃない、あいつにより辛い選択肢を与えただけだ。


何か腑に落ちない気持ちが生まれました。


ずいぶんと饒舌でした。飲みの席だったので。



会社に入ることが決まった弟は、実はタイピングすらできません。

人差し指1本でキーボードを叩く始末・・・

大学で習わなかったか?

習わなくてもそれくらいできないと社会で通用しないと感じなかったか?


そんな弟を見て父が言いました。


「タイピングできないなら、パソコンスクールにでも通うか。費用は出してやるよ」


今年の12月に夏にあった税理士試験の結果が出ます。


その結果如何で、弟の行く末が決まる・・・なんてことはないでしょう。


父ははっきりと、クビにする、と言いました。


でもきっと落ちたとしても、「もうここまでいろいろ教えたんだから、今から新しい人を雇うのは難しい」とでも言うんでしょう。それとも「あいつはポテンシャルがある」とでも言うんでしょうか。


私は弟の芽をつぶしているような気がしてなりません。


でも私には関係ない。会社のことだから。口出す権利もない。


だから黙って見ているだけ。

ある日、母が会社に来ると、父から、独立当初とてもお世話になったあの工場に、お花を送っておいてほしいと言われました。


会社の名前は出すな、いいから送れ、と。


その工場は、娘さんの代になってから、経営難に陥っており、母は以前から心配していたそうです。


父はその頃にはその工場には見切りをつけたのか、見向きもしなくなり、大手のお客さんにばかり時間を割いていたそうです。


それは間違いではないと思います。

会社経営は利益を出してなんぼ。大手の顧客は大事です。従業員の生活(当時は母と雇われの税理士さんのみですが)も抱えています。


ただ、その工場の社長さんは、私達の今の生活の基盤を作ってくれた方でした。

だから独立当時からそれまでずっと、父が担当していた顧客でもありました。

会社の規模に関わらず、恩があったのでしょう。


そのお花は、その社長の娘さん、当時の社長さんのお葬式のためのお花でした。


経営が立ち行かなくなり、多額の借金を抱え、それを苦に自殺したのだそうです。


その時に母の中で何かが、ぷつん、と切れてしまったようです。


なぜ自殺に至るまで手を下さなかったのか。

それが延々と母の中に残りました。


もしかしたら、手は尽くしたのかもしれません。

それでもそうなってしまったのかもしれません。


でも多分、一緒に働いている人にはわかります。手を尽くしたのか、それとも・・・


独立から支えてきた人なら尚更。


そこで母の信頼はぷっつりと切れてしまったようです。


私は会社のことは分かりません。


ここまで書いたことも、人伝いに聞いたこと。

私が実際に一緒に働いて経験したことではないから、なんとなく不信感は覚えても、それをもとに是非は語れません。


ただ、こうやって母は、うつになりました。


母の言葉は、もはや嘲笑され、聞き流されるようになりました。


それでも父は言いました。


「お母さんの言うことは正論なんだよ。俺はいつもすごく感謝してるよ」

私は父親が嫌いです。

できれば顔も見たくないし、話もしたくありません。


実の親を嫌うなんて、おかしいことだと思います。


感謝してないわけではありません。でもそれとは別の次元で、人として彼を許せません。


時間が経てばある程度は緩和することかもしれません。

でも今はどうしても許すことができません。



父は、社会的には多少、甘い蜜を吸った人です。

30代で会計事務所をクビになり、資格も何もないのに自分で会計事務所を立ち上げました。


あんたについていく、と言ったお客さんも、ふたを開けてみたらまったく、最初は母と二人、駆けずり回って集客したようです。


昔お客さんが言っていました。


駆け出しの頃、Nさん(母)が顧客一人一人綺麗に包んだお赤飯を炊いてご挨拶に来てくれた時、本当に誠実に顧客を大事にしてくれる方々なんだと、心に響きました、と。


母はそんな一生懸命自分の砦を守ろうとする父を、仕事の面でも家庭の面でも、今までずっとサポートしてきました。


誰よりも早く会社に来ていた父。

早いね、と母が言うと、自分の会社だからね、とうれしそうにしていました。


母は頭の回転が速く、言うなればキレモノ。よく気のつく人です。

父は全く逆で、鈍感で事務能力はほぼゼロ。コンサルタントなのに、おしゃべりも決してうまいわけではなく、人柄と努力だけでやってきた人でした。


そんな中、父を信じ、会社立ち上げを全面に助けてくれた人がいました。


とある工場を経営する社長さんでした。頭が上がらないくらい、お世話になったそうです。

後にその社長さんは亡くなり、娘さんが後を引き継ぐこととなりました。

私も娘さんにはお会いしたことがありますが、従業員一人一人を大事にする、いつもにこやかなとっても大らかで暖かい女性でした。


その方のおかげで、会社はなんとか軌道にのり、子供たち4人を大学にやれるくらいの収入は得られるようになりました。


その努力たるや、きっと私の想像以上なんだと思います。



10年経ち、15年経ち、経営も落ち着いてくるはずの頃から、母は序々に違和感を感じ始めたようでした。


私用で使ったお金が、当然のように会社の経費でおちている。

経営の苦しい小さな会社には、コンサルタントであるにもかかわらず、経営に関するアドバイスは一切せず、電話口で顧問料の未払いをののしるだけになった。

自分に利益がある(飲み屋さんのお客さんなら、飲み代がタダになる等)顧客には、たとえ支払いは1年滞っていても、「今は請求の時期じゃない」と言って放置。

毎年変わる税法に関しての勉強は一切しなくなり、雇われの税理士におんぶにだっこ。

客先を訪問しても、自分の自慢話と他人を蔑む話ばかり。

 

そんな小さな違和感を感じつつも、母は、ここは父の会社である、彼が経営者である、ということで、ついてきました。



ある時までは。

これからブログに書くことは、全部本当のことですが、

誰かに読んで欲しいとか、励まして欲しいとか、批判して欲しいとかいう理由で書くわけではありません。

どこかに吐き出さないと心身ともに壊れてしまいそうなので、書きためたものを載せます。

多分全て書き終えたら、一気に全部消すと思います。

もし知り合いの方が見ていたら、読んでももちろん結構ですが、他言しないでそっとしておいて欲しいな。

それでは・・・