以前のブログでは、

神がどんな方であられるか、

そのさわりの部分をご紹介しました。

 

 

 

一般の日本人の感覚としては

神のことを知るなぞと畏れ多くでできない、

と思われる方がいるかもしれませんが

イエス・キリストによってその道が開かれました。

 

なぜなら、キリストを通してでしか

わたしたちは神を知ることができないからです。

 

キリストが十字架にかけられてくださったことによって、それは達成しました。

キリストは、幕屋の至聖所の前にある垂れ幕を破ってくださったのです。

しかも上から下に真っ二つに。

 

[マタイの福音書 27:51、52]

 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、

墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。

 

それが神の御力でなくて何でしょう。

 

 

イスラエルの幕屋や神殿では、至聖所には年に一回、大祭司しか入られませんでした。

そこは大祭司だけが、神と交わることのできる場所でした。

 

キリストが垂れ幕を破ってくださったことによって

すべての聖徒は

大胆に神のおられるところに入ることができます。

 

[へブル人への手紙 10:19、20]

 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に(至)聖所に入ることができます

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 

 

つまり、キリストがいのちを与える御霊(聖霊)

となってくださったことにより

わたしたちは、聖霊によって生かされた(再生)わたしたちの霊を通じ、神を知ることができるわけです。

 

 

もちろん、神は無限な方であられるので、

わたしたちが知ることができるのは、

ほんの一部です。

からだとしてキリストを知るので、

ひとりがすべてを知ることはできないのです。

 

しかし、わたしたちは

キリストの霊と心と一つとなっていくことで

さらに深く神を知ることが可能になります。

 

 

旧約聖書にも

何人かの預言者によって書かれてあるとおり、

神のお姿を垣間見ることができます。

 

例えば、旧約聖書に登場する、

ダニエルやエゼキエルといった預言者です。

 

彼らは、神の御座のすぐ近くまで進み、

霊の中で神を見た人たちでした。

 

 

 

では今回も、神がどんな方であられるか

聖書のことばに照らして見ていきましょう。

 

 

 

1)天地の主権者、諸霊の主

 

 

イエスははっきりと、神を「天地の主」と呼んでいます。天の神、地の神はないし、

複数の神々が主であるということでは全くありません。サタンと人間が創作したにすぎません。

 

 [マタイの福音書 11:25]

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。

 

[ガラテヤ人への手紙 4:8]

 あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。

 

 

そういうわけで、

エノク書では(ここでは引用しませんが)

神のことを「諸霊の主」と呼んでいます。

つまり、神々にまさっている唯一の方である、

ということです。

 

[詩篇 82:1]

 神は 神の会議の中に立ち

 神々のただ中でさばきを下す。

 

 

天気や災害、すべてを起こされるのは

この天地万物を造られた神以外にはありません。

 

[エレミヤ書 14:22]

  国々の空しい神々の中に、

  大雨を降らせる者がいるでしょうか。

  それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。

  私たちの神、主よ、

  それは、あなたではありませんか。

  私たちはあなたを待ち望みます。

  あなたが、これらすべてをなさるからです。」


 

 

2)全能の神

 

 

やがて、世の繁栄を味わった者の中から

傲慢に神を冒涜する者が現れます。

 

[ヨブ記 15:25、26]

  それは、彼が神に対して手向かい、

  全能者に対して尊大にふるまい、

  分厚い盾を取って、

  傲慢にも神に向かって突き進むからだ。

 

 

しかしそのとき、永遠に存在する神は、

聖書のご計画を成就させ、

ほどなく地に神の王国を建ててくださいます。

 

[ヨハネの黙示録 4:8]

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。

  「聖なる、聖なる、聖なる、

  主なる神、全能者。

  昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。

 

 

 

また神は、全宇宙、天地の主であられるのに

お救いになった人々をご自身の子どもとされる

あわれみ深い神であられます。

 

[コリント人への手紙 第二 6:18]

  わたしはあなたがたの父となり、

  あなたがたはわたしの息子、娘となる。

  ──全能の主は言われる。」


 

全能の神=エル・シャッダイ(へブル語)

といいます。

エルは「神」を表し、シャッダイは「乳房」を意味します。

 

一体どういう意味なんだ?

と思われたかもしれませんが、

母親が生まれた子どもを母乳で育て

その子どもには何の不足もないように、

「すべてに十分な神」というニュアンスのほうが、

もともとの意味としては当てはまっています。

 

 

それは、神ご自身が

すばらしいご自分の能力をひけらかすのではなく、

わたしたちの御救いのために

すべてを与えてくださる神、そのようなことにお力を尽くす方であることを意味しています。

 

それほどまでに、神の愛は深いのです。

 

 

事実、神は子どもとしてくださった聖徒たちに対し

霊の中で、

きめ細やかなお世話をする母であり、威厳のある父なのです。

 

 

 

 

3)ねたみの神

 

 

このことに関しては

以前のブログでも触れています。

 

 

 

 

 

神は、他の偶像や神々を拝むことを何より嫌われます。

 

[出エジプト記 34:14]

あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。

 

 

イスラエルに対して悪事を働くものには、

はげしいねたみを持って神は復讐されます。

 

[エゼキエル書 36:5]

それゆえ、神である主はこう言われる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々とエドム全土に告げる。彼らは心の底から喜び、思い切り嘲って、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。

 

 

ですから、

以前の繰り返しになるのですが、

キリストにある者は、世界の論調やマスコミに踊らされずイスラエルを擁護し応援する、というのが使命なのです。

 

神が愛されるものは、わたしたちも愛するはずです。

 

 

 

 

4)創造の神

 

 

神は天地万物、また人を男と女に創造されました。

それは神が安息される「家」を造るためです。

 

ですから、わたしたちのために神があるのではなく

神のご計画のために、わたしたちがあるのです。

 

[創世記 1:27]

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 

[創世記 2:4]

   これは、天と地が創造されたときの

   経緯である。神である主が、地と天を

   造られたときのこと。

 

 

 

天と地を造らず、

人間に礼拝される御使いたちはサタンの手下です。

彼らは、恐ろしいところ(アビス)に行き、やがてゲヘナ(火の池)で滅びることになります。

 

[エレミヤ書 10:11]

 「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

 

 

 

地においても、また天においても礼拝されるべき方は、永遠に神と御子イエス・キリストだけです。

 

どちらも御霊を通して、わたしたちの中に働かれる方です。

それは、創造の神としても、救いの神としても

この三位一体の神として

聖書に書き記されている、すべてのご計画を完成されるからです。

 

[ローマ人への手紙 1:25]

彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 

 

 

 

5)愛の神、恵みの神

 

 

神は愛であり、愛は神から出ています。

サタンは欺くことはあっても、絶対的に愛はありません。

人に傲慢な気持ちを起こさせたり、必死に頑張らせたり、人の悪口を思わせるのがサタンです。

 

神は平安を下さり、

怠けることはお許しになりませんが、

ご自身ですべてを満たす者には、

無理は決してさせないお方であり、

愛情深い母親と、しつけのきびしい父親を併せ持ったようなお方です。

 

[ヨハネの手紙 第一 4:7〜9]

  愛する者たち。

  私たちは互いに愛し合いましょう。

  愛は神から出ているのです。

  愛がある者はみな神から生まれ、

  神を知っています。

  愛のない者は神を知りません。

  神は愛だからです。

  神はそのひとり子を世に遣わし、

  その方によって

  私たちにいのちを得させてくださいました。

  それによって

  神の愛が私たちに示されたのです。

 

 

 

神の愛は、いつくしみ深いだけでなく

はげしいねたみをもって、わたしたちキリストの聖徒やイスラエルを愛します。

なぜなら、神は聖なるものとなる(なった)わたしたちをご自分のものとされるからです。

 

[ローマ人への手紙 5:5]

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、

神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

[雅歌 8:6、7]

 封印のように、私をあなたの胸に、

 封印のように、あなたの腕に押印してください。

 愛は死のように強く、

 ねたみはよみのように激しいからです。

 その炎は火の炎、すさまじい炎です。

 大水もその愛を

 消すことができません。

 奔流もそれを押し流すことができません。

 もし、人が愛を得ようとして

 自分の財産をことごとく与えたなら、

 その人はただの蔑みを受けるだけです。

 

 

 

また神は、

豊かな恵みをわたしたちに施されます。

 

[出エジプト記 34:6]

主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み

 

 

神の恵みは選びによります。

 

[出エジプト記 33:19]

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 


恵みは神から出たのであって、

わたしたちがどんなにつまらなく、小さい者であっても関係ありません。

神は、罪のあるわたしたちを イエス・キリストへの信仰によって義とされます。(信仰義認)

 

[ローマ人への手紙 3:24]

神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

 

 

それは決して律法主義ではありません。

ただ、神とイエス・キリストの恵みによって救われます。

それは聖霊の働きと、悔い改め(キリストの血)により 神の義(行い)を達成し、永遠のいのちへと至るものです。

 

[ローマ人への手紙 11:6]

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。

 

[ローマ人への手紙 5:21]

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、

私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 


霊としてのイエス・キリストの恵みは、

わたしたちの霊なる糧です。

これを日々食べることにより、わたしたちは霊的に成熟します。

 

それはなぜかというと

旧約時代に、イスラエルの民がマナを食べて生活することで予表されているのです。

マナは神が遣わされた「天からのパン」すなわち、キリストです。


 [ヨハネの福音書 6:35]

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。


 

[へブル人への手紙 13:9]

様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。

 

[ピリピ人への手紙 4:23]

 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

 

 

 

 

神による、最も大きな恵みは

イエス・キリストの十字架です。

このことによって、神はわたしたちに

罪の赦しと義といのちを与える御霊(聖霊)をくださったのです。

 

[ローマ人への手紙‬ ‭8‬:‭2‬ 口語訳‬]

「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

 

[へブル人への手紙 2:9]

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 

 

わたしたちがいのちの御霊により、神とキリストとの交わりにあずかるとき、神を知ります。

そしてあらゆる恵みと保護を受けることができます。

 

[へブル人への手紙 4:16]

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、

大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

 

 

 

6)聖なる神

 

 

神は聖であられます。

ですから、わたしたちの罪や肉を受け入れることができません。

 

[出エジプト記 15:11]

  主よ、神々のうちに、

  だれかあなたのような方がいるでしょうか。

  だれがあなたのように、聖であって輝き、

  たたえられつつ恐れられ、

  奇しいわざを行う方がいるでしょうか。

 

[イザヤ書 5:16]

  しかし、万軍の主はさばきによって高くなり、

  聖なる神は正義によって、

  自ら聖なることを示される。

 

 

ですから、神が最もわたしたちに求めておられるのは

わたしたちが聖なる者となることです。

 

それは、御霊によって心がつくり変えられ、

わたしたちが新しい創造として

キリストに似た者となることです。

 

そのために、キリストは十字架にかけられなければなりませんでした。

 

[レビ記 11:45]

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」

 

[ペテロの手紙 第一 1:15]

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

 

 

 

7)義なる神、さばきの神

 

 

そういうわけで、神は聖なるお方ですので

罪や不義を赦すことがおできにならないのです。

ですから、やがてさばきのときを迎えることとなります。

それまで長い年月の間、神は忍耐されています。

 

 

ですから、わたしたちがさばかれないよう、

神は、みことば、聖書のことばによって

ずいぶん昔から警告を与えられていました。

 

[イザヤ書 42:21]

  主はご自分の義のために望まれた。

  みおしえを広め、これを輝かすことを。

 

 

さばきのときになってからでは遅いのです。

日本にも「お天道様は見ている」ということばがありますが、実際には神がご覧になっています。

 

[ゼカリヤ書 4:10]

  だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。

  人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。

  これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」

 

 

わたしたちは天から、日ごとの行いをすべて見られているからです。

さばきの基準は神の基準、聖書の基準です。

神に死角はありません。

 

キリストを信じる者には、その十字架の血によって

神のさばきは過ぎ越されます。

つまり、さばきを免れるのです。

 

[イザヤ書 26:9]

  私のたましいは、夜にあなたを慕います。

  まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。

  まことに、あなたのさばきが地に行われるとき、

  世界の住民は義を学びます。

 

 

天は恵みを与え、

わたしたちは御使いによって義の行いをするために

サポートを受けていることでしょう。

 

つまり、これはわたしたちの努力ではなく

天との共同作業なのです。

わたしたちは神の義を求めなければなりません。

 

[イザヤ書 45:8]

  天よ、上から滴らせよ。

  雲よ、義を降らせよ。

  地よ、開け。天地が救いを実らせるように。

  正義をともに芽生えさせよ。

  わたしは主。わたしがこれを創造した。」

 

 

 

 

イエス・キリストは宣教のはじめに

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

と言われました。

つまり、これが「御国の福音」です。

 

神が義をもってこれ(最初のご計画)を達成するので

あなたがたも(神に立ち返り、絶えず)悔い改めなさい、ということでしょうか。

 

これが義の内容です。わたしたちを希望をもって信仰にすすませます。

 

[ローマ人への手紙 1:17]

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

 

 

この世のあらゆる不義によって

イエス•キリストと使徒たちが教えた神の真理は

多くがサタンのゆえに隠されています。

しかし、神は終りの時代に、怒りを表されます。

 

それが不義であるかは、義を行うかどうか、真心から神と兄弟を愛するか、によって判断されます。

 

[ローマ人への手紙 1:18]

 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

 

[ヨハネの手紙 第一 3:10]

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 

 

 

 

8)救いの神

 

 

神は、全世界の神であられますが、

イスラエルの神でもあり、

古代には 彼らに栄光を与えるために 

他の偶像を拝む国々を滅ぼされました。

 

それで、周辺諸国はイスラエルの神を大変恐れました。

 

古代は神々の戦いであり、イスラエルの神ほど力のある神々はだれもいなかったのです。

諸霊の主ですので当然ですが。

 

[イザヤ書 37:20]

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。

そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。」

 

[イザヤ書 43:13]

  これから後もわたしは神だ。

  わたしの手から救い出せる者はない。

  わたしが事を行えば、

  だれがそれを戻せるだろうか。」

 

 

 

 

神は、キリストによって家を造り、

そこに聖なる神ご自身が安息することをご計画され

世界の基が据えられる前から、神はキリストにあってわたしたちを召してくださっていました。

 

それは神ご自身のご計画と、

キリストにあって達成された恵みによってでした。

 

イエスが十字架にかけられる前には

このような天的な恵みは存在しなかったので

ユダヤ人たちは、この恵みを知らなかったですし、

今も知りません。

 

それはただ、死から復活されたイエス・キリストを

心で信じて口で告白し、救われることです。

後は御霊に働いていただき、それに協力するだけです。

それが、恵みなるイエス•キリストです。

 

永遠の神の家、それは神の永遠のいのちを宿したすべての人が、神とキリストをほめたたえる世界です。

 

[ローマ人への手紙 10:10]

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

[テモテへの手紙 第二 1:9、10]

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、

今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。

 

 

わたしたちは肉なる者で、

からだが贖われるまで肉や罪をなくすることはできませんが、

ただ 神の恵みによって、

わたしたちは極みまで救われることができます。

 

ただし、わたしたちの愛と真実が必要です。

 

[テモテへの手紙 第二 4:18]

主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。

主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 

 

 

 

 

10)わたしたちに住まい、わたしたちが経験できる神

 

 

わたしたち全被造物には、キリストが宿っています。

古代日本人はこれを、八百万の神と表現しました。

 

[コロサイ人への手紙 1:17]

御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 

[コロサイの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭17‬ 新共同訳‬]

「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

[コロサイの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭17‬ 回復訳‬]

また、御子は万物より先に存在し、万物は彼にあってまとまっています。

 

 

 

 

‭‭しかし、わたしたち息ある者に宿っているだけでなく、

キリストを信じ、キリストのことばを守る者には

神の愛も受けられ、神とキリストが聖霊とともにわたしたちの霊の中に住まわれます。

 

そして豊かな恵みの中に歩むことができるのです。

 

[ヨハネの福音書 14:23]

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

 

 

このように、キリストの聖徒たちにとって

神は近い存在であられます。

 

この方の天的な恵みに目が開かれることによって

その恵みを受け取ることができるのです。

それはわたしたちが経験できる「キリスト」という恵みです。

 

[へブル人への手紙 10:29]

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。

 

 

わたしたちは、この霊なるキリストから

あらゆる知識、知恵、御力を受けることができます。

そしてそれはやがて永遠のいのちへと至ります。

 

 

 [へブル人への手紙 4:16]

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

 [ヘブル人への手紙12:28回復訳]

こういうわけで、わたしたちは揺り動かされない王国を受けているのですから、恵みを持とうではありませんか。この恵みによって、わたしたちが敬虔と畏れをもって、神に喜ばれる奉仕をするためです。

 

 

どうか、すべての聖徒たちが

この恵みを豊かに受け、神を知ることにおいて成熟されますように。

そして、キリストの十字架をいつも高く掲げることができますように。