北野天満宮は、
菅原道真公(845年〜903年) 鎮魂のために建てられたのですね。
今回は、その経緯を追っていきます。
菅原道真公は忠臣として名高く、時の帝に頼られ、寵愛を一心に受けて、儒家の生まれ(当時は、身分が低い)にして右大臣にまで上り詰めますが、藤原時平(左大臣)の讒言(=昌泰の変)により役職をとかれ、大宰府へ左遷されて2年後に現地で没しています。
無実の罪を背負わされてからというもの、一家は筆舌しがたいつらい環境に身を置かれ、大変にご苦労されたようです。藤原氏は勢力が拡大し日本中に居ますので、逃げ場がない。調べていくと、あまりにも気の毒で、人間というのはよく知らない人物や噂や誤解によって、ここまで酷い(むごい)仕打ちをするものなのかとつらくなりました。
ここでは細かい描写までは割愛します
それにしても、帝も帝。
これだけ持ち上げておきながら、助けないとはぷんぷんと思っちゃいますが、帝ですらそう簡単にコントロールできないほど、当時の藤原氏の勢力は政治の中枢にまで影響を与えていたようです。

藤原氏は、飛鳥時代の669年に中臣鎌足が大化の改新の功績にて「藤原氏」の姓を名乗るところから急速に発展。平安時代中期から後期に最も栄えましたが、1189年の奥州合戦で滅亡したと伝えられてます。

菅原道真公を左遷したことだけが原因とは言いませんが、この辺りからでしょうか。藤原氏は絶頂期から衰退期へと流れが変わったように思います。
そう考えると、天児屋命の流れをくむ藤原時平と、天穂日命の流れをくむ菅原道真公が出会ったのは、偶然ではなく宿命だったのでしょうか。
それか、藤原氏が判断を誤ったか。
考えすぎ?

雷神
『北野天神縁起絵巻』などでは、道真公が亡くなり ほどなくして、比叡山の僧侶のもとに道真公が現れ「怨みを晴らす」と告げたといいます。
ほんとかな?
異議あり
それからというもの、
■908年 藤原菅根が雷に打たれて落命
■909年 藤原時平が病死
■913年 源光(道真公の後の右大臣?)が鷹狩り中に泥沼に転落して溺死
■923年 保明親王が満19歳で死去(時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた)
■923年 世の中は日照りや水害に悩まされるため、疫病を鎮めるために年号を「延喜」から「延長」に改元
一連の不幸は、菅原道真の怨霊との噂より、923年に帝は道真公を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めたそうですが、更に悲劇が襲います。
■925年 慶頼王が満3歳で死去(保明親王の娘との間に生まれた)
■930年 清涼殿において、雨乞いすべきか会議していたら、清涼殿に雷が直撃。
近くにいた公卿らが巻き込まれ、大納言民部卿の藤原清貫は衣服に燃え移った火に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態に。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で外に運ばれましたが、程なく死亡しました。
雷は隣の紫宸殿にも落ち、右兵衛佐の美努忠包、紀蔭連、安曇宗仁も死亡。更に警備の近衛兵も2名死亡したのです。衝撃的で凄惨な事件だったようです。
■930年 「清涼殿落雷事件」直後から醍醐天皇の体調が悪化し、同年の内に崩御してしまわれます。
菅原道真公が、雷神とされるのは、ここからきた謂れなんですね。
清涼殿の落雷を菅原道真公の怨念と受け止め震えあがった朝廷は、道真の子らの流罪を解いて京に呼び戻しますが、醍醐天皇の病は癒えず 醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位し、朱雀天皇が誕生。しかし、その7日後に出家した醍醐上皇は崩御します。
清涼殿落雷から、わずか3ケ月の間の出来事でした

菅原道真公はその死後、日本三大怨霊扱いされますが、これもどうなんだか
無実の罪を負わされ、つらい仕打ちを受けた上、亡くなってからも道真公の祟りだと言われて、ふんだり蹴ったりじゃないですか?
まあ、確かに道真公に関係する方々の身によからぬことが起きてはいますが、怨念だなんて。
天罰と表現して差し上げるべきですっ
菅原道真・平将門・崇徳天皇を日本三大怨霊と表現するようになったのは、江戸時代から らしいけど、背景知ると失礼極まりない話だわ

(江戸時代)
雷神といえば、
俵屋宗達の風神雷神図(国宝)を思い浮かべます。
左上は、雲を蹴散らし舞い降りる雷神、
右上は、黒雲に乗り天を駆ける風神。
ひょうきんで可愛いです。
農作物に恵みをもたらす神として描かれたらしいです
が、
北野天満宮に所蔵する雷神は怖いです