福山の素盞嗚神社は、備後国の一宮。


近くの吉備津神社も備後国の一宮あんぐり
一宮って、いくつもあるのかな真顔

また、調べようキメてる


こちらが、参道入り口。

まっすぐ進むと、随神門
悪神や鬼の進入を防ぐ門番がおられます。

■右に、櫛岩間戸尊 くしいわまとのみこと。
(日の締を守る)
 
■左に、豊岩間戸命 とよいわまどのみこと。
(月の締を守る)


御由緒読むと、謂れ(いわれ)多き神社のようです。

■素戔嗚神社のご祭神

素盞嗚尊

すさのをのみこと


奇稲田姫:素盞嗚尊の妃
くしなだひめ

八王子:素盞嗚尊の御子神
やはしらのみこ

■天満宮のご祭神
菅原道真
すがわらのみちざね

■蘇民神社のご祭神
蘇民将来
そみんしょうらい

■疱瘡神社のご祭神
比比羅木其花麻豆美神

ひひらぎのそのはなまづみのかみ

または、

ひひらぎのそのはなまずみのかみ


(多分、こちらが櫛岩間戸尊)


更に、御由緒読み進めながらの、

私の反応の文字化です知らんぷり



この辺りは、

疫隈の郷(江ノ隈の里)といい、

名前から、恐らくこの辺りは入江だったのだろうと。

今、すっごい山奥なんですけど不安


地形変わってる?

としたら、変わり過ぎなんですが不安不安


神社一帯は、奈良時代、海陸交通の要所だったそうですひらめき


(多分、こちらが豊岩間戸命)


更に、御由緒読み進めます。



素盞嗚神社は、

茅の輪伝承発祥の地

(茅の輪くぐり=無病息災、厄除けを願う神事)


素盞嗚尊は、武塔天神、祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖。

素盞嗚神社は、備後三祇園社の一社。祇園祭りは備後の夏祭りで有名で、祭り終了日の深夜に吉備津神社の禰宜が素盞嗚神社を参詣し「無言の神事」を行ってるとな?

「無言の神事」って、なに?


また、明治初期まで(神仏習合の一時期)、素盞嗚神社は「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた時期があり、「早苗の松の伝承」を残したと。

「早苗の松の伝承」とは一体?



で、色々ググり調べました。

■備後三祇園社とは?

素盞嗚神社(福山市新市町)

須佐神社(三次市)

沼名前神社(福山市鞆町)

です。


■無言の神事とは?

祇園祭の最終日の「けんか御輿みこし終了後に、吉備津神社より宮司、禰宜ねぎが参拝して昇殿し、幣帛へいはく十二本と神饌しんせんを供え、祝詞を奏上し、当社の神官に無言のまま一礼して下社する神事だそうです。


■早苗の松の伝承とは?

神仏習合の一時期、「早苗山天龍院天王寺」と呼ばれた「早苗」(山号)とは、かつて境内に早苗松という三株が一所に生えた老松があったことからだとか。

そして、驚くことに、その「早苗の松」は、巨旦将来(こたんしょうらい)の屋敷跡のシルシらしいです。


え-----------

素盞嗚神社は、巨旦将来の住まいの跡地ということ?

なんと不安不安不安不安不安

(蘇民将来の物語知るとビックリする話です)

まだ、拝殿にたどり着かない泣き笑い
続きます。



ちなみに、御由緒に記載してあるのは、以下です。
(転記)

■疫隈の里
この附近は江熊の里とよばれたところ、古くは江隈とも記された。江は入江であり、隈はかたすみとも読める。

江ノ隈の読みから、穴の海の入江であったことが伺われる。
奈良時代には古山陽道がこのあたりを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えたところでもある。

■茅の輪神事
備後の國の風土記に曰く、疫隈の國社。
昔北海に坐します武塔神……南海に出てまししに日暮れぬ。
その所に将来二人ありき。
兄の蘇民将来、甚く貧しく、弟の巨旦将来、富て屋倉一百ありき……
即ち、詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまいき。
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上、最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神名帳にみえる古い歴史をもっている。
現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。
素盞嗚尊は武塔天神あるいは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。
本社は、備後三祇園社の一社で7月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司・禰宜が当社に参詣し「無言の神事」が行われている。
明治初期まで神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれたこともあり、早苗の松の伝承を残した。



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