マック。?
ずっと食べたかったパスタ屋さん。
スタバのチーズケーキやっぱ美味しいわ。
マックはしご。
ドーナツ。
過食衝動は抗えない。
抗っても、負ける。
だから最初から戦わない。
戦わなければ負けではない。不戦敗。
そうやって私は不戦敗を続けてきた。
過食だけじゃない。
私の人生、最初っから負けが込んでいた。
でも負けが決定的になったのは、摂食が始まったぐらいの時。だから30年ぐらい前。
自分を律しても、努力しても、本能の前ではこんなに容易く負けるんだ。努力しても無駄なんだ。
だから努力をやめた。
努力とか馬鹿みたい。全部無駄なのに。
少なくとも私は無駄だって知ってる。
知ってる私は特別。
いいの、最初から土俵に立てないみそっかすなんだもん。
外野に徹して、ダメになる自分もまた外野から眺めて、何も傷付かない。
自分の将来、進路、希望、展望、全てどうでもいい。
興味があるのは食べることと体重のみ。
体重計の針(時代を物語るアナログ式)が左に動けば◯、右に動けば×。
その他の悩みは消えた。
30年間、そういえばコミュ障の悩みが消えていた。
自分を誇ることもない代わりに、恥じることもなかった。
小さい頃から『自分はここにいてはいけない』と感じていたけど、30年間は『ダメな人間としてここにいていいんだ』と思っていた。
でもダメから脱却しようとした途端、自己嫌悪と劣等感が襲ってきた。
『ダメ』の烙印より辛い。
何もない。何も持っていない。何にもなれない。
物凄い勢いで自分が自分を消しにかかってる。
隙あらば耳元で『価値がない、ダメ人間、お前ここじゃないどっか行けば?恥ずかしい、鏡見ろ、みっともない、消えろ、いなくなれ。それで頑張ってるつもり?』
罵詈雑言。
最初は聞き流してたんだけど、
この頃ガチで受け止めるようになってしまった。
私の中のいじめっ子が、ジャイアンもびっくりのいじめっ子が本気出してる。エグい。
だから毎日疲れる。
緊張が解ける週末には自分を労ってやりたいけど、
手っ取り早く食べることしか思いつかない。
で、週末過食。
どんどん太って、それをネタにまた自分いじめ。
体重の話しますと、
私一年近く体重測ってません。
その方が落ち着くから。
体重の増減に一喜一憂したくないから。
体重計の数値なんかより、昨日より今日、今日より明日。日常を積み重ねて、少しでも前へ進めればいいじゃない。私の価値は体重計の数値なんかでは測れないぜ!
と、頑張ってた2年ほど前。
そのときも体重、ずっと測ってなかった。
でもある時、
じゃ私の価値って何で測るのさ。
昨日より今日が前進してるって誰が言えるのさ。
後退してるかもしれないじゃん、退化してるかもしれないじゃん。
それでも頑張ってるから良いってか?
その頑張りとやらも、主観じゃん。
その証拠に、今現在、自分のこと何にも良いと思えない。
そんな中、また過食が頻発していた。
だから我慢できず、ある日体重計に乗ってしまった。
増えていた。
でも、想定内だった。
そして、この体重計の数値は問題ではない。
大切なのは今日より明日、体重が減っていること。
それが目に見える。それは希望である。
今日53キロでも明日52.5になってれば、自分に◯をあげられる。
そんなこんなで、2年前の私は、また体重を減らすことに邁進するようになった。
で、現在の私。
体重計はベッドの下の奥の方。容易に取り出せない位置にしまってある。
きっと今体重計に乗れば、増えた体重に一時的にショックを受けるだろうけど、同時に増えたものは減らせば良いことに希望を見出すだろう。それがモチベーションになるだろう。
でもそれじゃ2年前と同じじゃん。
体重計の数値=自分の価値って、その価値観おかしいから。
今の私にとって、体重計に乗ってしまうことは『逃げ』。
でも、私は自分に◯をつけたい。
明日の自分に◯を付けたい。手っ取り早く◯を付けたい。
体重測って、明日は0.5キロ減らせば、容易に◯が、安心感が手に入る。私は安心したい。いち早く安心したい。目に見える拠り所を見つけたい。いいよ逃げでもなんでも。
ベッドの奥の奥にあった体重計は埃をかぶっていた。
ああ、決心が崩れてく。
でも決心なんぞ安心感には変えられない。
マッパになって、体重計に乗った。
はて。
何も表示されない。
電池が切れていた。
ひゅーーーーーー。
これは測るなということかもしれない。
電池は換えなかった。
バカなアラフィフだなあ。
いつまでこんなことをやっているのだろう。