「だから先手を打たせてもらったよ。正直に言うと、ナコ一人が俺たちを妨害しようとしたところで差し支えはなかったはずだが、みんなの士気が下がる可能性があったからな」
兄の背後では着々と準備が進んでいるようだ。ダメだ、何とかして止めないと。そう思って、何でもいいから水を差す言葉を発しようと口を開いたが、
「――!」
後ろの男に口を塞がれる。片手でナコの両手を、もう片方で口を押さえられて、何も出来なくなる。それでも、と兄を睨み付けてみるが、
「もう俺たちは止まれない。ナコはここで祈っていろ。俺たちのターゲットにお前の恩人が乗っていないことを」
後ろで準備が完了したようだ。ナコよりも早く兄はそれに気付き、熱くなっているメンバーに指示を出す。彼らは思い思いの表情とかけ声をそこかしこに向けて、自分たちを鼓舞しながら何かを運んで外へ向かっている。何か……巨大な、あれは、岩?
「あれを鉄のレールに置いてくるんだ。ちっぽけだろ? だが、あれだけのスピードのものだ。レールを外れるだけで大惨事の出来上がりだ」
あれだけのものを運んでいるのに、彼らの顔に苦渋は見あたらない。歯を食いしばってはいても、その顔には笑みが――ある種の狂気を孕んだ笑みが浮かんでいる。そして、そんな彼らの背中すら、徐々に遠くなっていく。
「あと、二十分後に近くを通るデンシャをターゲットにあの岩を置いてくる。それまで、ここでおとなしく待っているんだ」
だめ。やめて。せめて時間をずらして。
いつもセイイチが帰宅する時間を考えると、そのデンシャに乗っていても全然おかしくはない。中止は無理でも実行の時間の変更さえしてくれれば、ナコには文句はない。が、それを伝えることさえ今のナコには出来なかった。必死でもがくも、ナコを押さえつけている男は離してくれなかった。
兄はナコに言うべきことはもうない、と後ろの男に、頼んだぞ、とだけ言い残して、きびすを返す。
兄の背中がどんどん遠くなる。完全に姿が見えなくなって少し経ったところで、男はナコの口を解放してくれた。勿論、両手はそのままだったが。
「離して! 離してよ!」
力の限り身をよじり叫び声を後方に叩きつける。しかし、男はもう何も喋るつもりはないらしく、ただ無言でナコを拘束し続けている。
交渉も情に訴えることも無駄だ、ということだろう。口から手を離してくれたのは、話を聞く準備があるのではなく、単にナコが息苦しくないように、ということのためか。この状況で使える武器は声だけであったナコだが、それすらも相手に通じなくなってしまった。
どうしよう。
ここ数日で口癖になってしまった言葉が頭を巡る。ぐるぐると回りながら渦を巻き、渦は何もかもを浸食していく。
どうしよう。どうしよう、どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうし――
肩に激しい痛みを感じて、ナコはいつの間にか閉じていた目を開ける。すぐそこに地面があった。頭の上の方から声が聞こえるが、何を言っているのかよく分からない。
自分は倒れているようだ。何があったのかは分からないが、とりあえず身体を起こそうと両手を顔の横につき、
両手が動くことに気付いて、一気に駆け出す。地を蹴るたびに肩に激痛が走る。が、動ける。もう掴まれていない。背中から声が追ってくるが、聞こえない。早く、兄たちの下へ。行って、止めなくては。
まだ肩が痛い。おそらく、先ほどあまりにも混乱したために意識を手放してしまったのだろう。それも男に手を掴まれたまま。その際に肩を痛めて、そして男は突然の出来事に驚き手を離した、といったところか。
考え事が結論まで辿り着いた時、ナコの目に兄の背中が映った。
「待って、お兄ちゃん!」
声に反応し、振り返った兄の顔には、今度こそ驚愕が浮かんでいた。
「ナコ……何で、ここに?」
今日、最初に会った時に発せられるべき言葉だ。一刻の猶予もないこの時に、何故かナコはこんな些細なことが可笑しく感じた。それでも口から出る言葉には、状況を変えたいという願いを込める。
「お願い、待って。中止して、なんて言わない。せめて、もう少しだけ時間を遅らせて。……多分、乗ってるの。セイイチが、次のデンシャに乗ってる。いつも帰ってくる時間から考えると、乗ってるの! ねえ、だから……お願い、お兄ちゃん……」
ナコを拘束していた男が追いついてきたのを背中で感じる。またナコを捕まえようとしたのだろう。兄がナコの背後に、もういい、と合図を送る。
「ナコ。さっきも言ったように、もう俺たちは止まれないんだ。それに、残念ながら仕掛けはもう終わった。……あれを置くだけだからな」
自嘲気味に口元を歪めた兄があごで示した方に目をやると、兄の仲間たちの影が固まっていて、その隙間から、レールに置かれた岩が見えた。
「俺たちはもう撤退する。こんなところでいつまでも群れていたらヤツらの目に付くかも知れないし、何より事故に巻き込まれかねない。だから、ナコ、お前も逃げるんだな」
そう言うと、兄は仲間たちに、引き上げるぞ、と声をかけた。そしてそのまま、ナコには目もくれずに立ち去っていく。兄の仲間たちも何人かはこちらを気にしていたようだが、みな小走りで先ほどの場所へと戻っていく。
ナコは兄に追いすがろうかとも考えたが、兄を説得するのは無理だと考え、彼らとは逆に、岩のある方へ駆けだした。兄は兄で、そんなナコを止めようとはしない。ナコ一人では何も出来ず、諦めてそのうちに逃げ出すだろう、とでも考えているのか。
諦めない。あたしはセイイチを守る。
この首で輝く鈴に賭けて。
とは言ったものの、三十前後の労力で運んだものを、ナコだけでどうにか出来るわけもなく。ただ置かれているだけのはずの岩は、根を張ったようにびくともしなかった。
それでも、直前よりも少し早い時間に代案を思い付いたのは幸運だったと思う。岩が置かれた鉄のレールを、セイイチの家とは逆の方向に出来る限り辿ったナコは、疲れ切った身体を直立させた。出来るだけ大きく見えるように、両手を拡げる。
セイイチがチョーカーをくれて、本当に良かった。キラキラと光を反射する鈴がこんなところで役に立つなんて、思ってもなかった。
数分は走っただろうか。あの岩が置いてある場所から大分距離を開けることが出来た。近すぎては意味がない。デンシャに止まってもらうにしても、あまりに近いと速度を落としきれずに結局は事故に繋がるだろう。
ナコが思い付いた、作戦その三。
セイイチでも兄でもなく、デンシャを止める。デンシャを動かしている者も、通り道に障害物があることが分かればデンシャを止めるだろう。
しかし、いくらあの岩が大きいとは言え、あれに気付いてから電車を止めたのでは遅すぎる。それよりも早い段階で、何らかのアピールをしなければ。
何をもってアピールをするか。我ながら頭の悪い方法しか思い付かなかったと思う。しかし、その選択をした時、ナコは特に恐怖を感じることはなかった。むしろ、この方法でセイイチを守ることが出来ることの喜びがあふれてくるようだった。
何か硬いもの同士が擦れ合う甲高い音が響き渡る。ナコの視界のほとんどは、今やデンシャからのまばゆい光で埋め尽くされていた。その直前に、デンシャを操作しているであろう者が驚き焦っている顔をしているのが見えた。ナコの姿が見えたのだろう。きっと、首の鈴の輝きでひときわ目立ったに違いない。
これで、あの岩に辿り着くまでにはデンシャが止まる。ナコの顔は晴れやかなものになっているに違いない。
間もなく、デンシャとナコは接触する。
デンシャの光が、もうすぐそこまで来ている。鉄の塊が押し出してくる空気の圧力を感じる。甲高い音はもう絶叫のようだ。口の中に鉄の味が拡がっている気がする。
ばいばい、セイイチ。
目を閉じて、別れの言葉を呟く。
あ、そういえば。セイイチが考えてくれてるはずの、あたしの名前。何なんだろうな。
ナコの意識は、そこで途切れた。
電車が、急停止した。