その日、休日だった美坂誠一は、朝から何となくテレビを見ていた。特に見たい番組があるわけではないので、チャンネルを変えながら面白そうなプログラムを探していると。

「さて、続いては○○線置き石事件の特集です。あの事件から今日で丁度一年。真相はどこにあるのか。VTRです」

 そうか、あれからもう一年になるのか。知らず知らずのうちに、手が額に伸びる。一年前に付いた傷は完治していたが、突っ張った感覚がまだそこには残っていた。

 テレビは、電車の運転手の顔を映していた。その当時に受けた取材の映像をもう一度流しているようだ。

「ええ、置き石がされていたなんて知りもしませんでしたよ。私がブレーキをかけたのは、生き物の影が見えたからです。最初、何かが光っているのが見えて、それが首輪だと気付いて。……ええ、みなさん信じてくれませんが、今思えばこの先に置き石があることを教えようとしていたんだとおもいます。何と言っても、電車の真正面で仁王立ちしていたんですから、あの猫は」

 そこで一旦VTRが終了し、アナウンサー二人組がテレビの中で喋りだす。

「この急停止のお陰で、大惨事は免れることになるんですよね」

「ええ、乗客に怪我人が多数でましたが、そのまま何事もなく進んでいると、間違いなく死者が出ていたと言われています。電車事故としては過去最大級となっていてもおかしくなかった、とも。……それでは、ここで最大の謎、置き石について、本日は専門家の方だちをお迎えして――」

 お前が助けてくれたんだよな。

 誠一はテレビを消して、窓の外に目を向けた。遠い目をして、あの頃を思い出す。路地裏で怪我をした猫を拾って帰った、あの頃を。

 誠一は当時の日々に想いを馳せた。が、すぐに引き戻される。

「いてっ」

 指に痛みを感じて、手元を見下ろす。そこには誠一の指に牙を立てている小さな存在があった。

 目が合う。にゃあ、と鳴き声。そして、また噛む。

「あー、はいはい。お前はここにいるもんな。僕が悪かったから、指を離してよ」

 その声に応えて、小さな存在――猫は彼の指から口を離し、噛んだ指を二、三度舐めるとこちらを見上げる。首輪の鈴が、りんと鳴った。

 あの日、電車が急停止し、怪我をした誠一がその場で電車から降りると、何か光るものが目に入った。線路の上、レールとレールの間で街灯を反射しているようだ。近づいたところで、それが気絶した猫の首に付いている鈴からの輝きだと分かった。その猫は倒れていたお陰で、通り過ぎる電車の下で怪我ひとつ負わなかったようだ。

「お前のお陰で僕は助かったんだよな。感謝してるよ。……何であんな所にいたのか知らないけど」

 案外、誠一を助けるために動いていてくれていたのかも知れない。冗談にも聞こえない考えかもしれないが、半ば本気でそう思っている。

 誠一は、伸ばした自分の足の上でくつろいでいる猫に、どうなんだ? と話しかける。彼女――雌猫だ――は聞いているのかいないのか、小さくあくびをしていた。

 ふう、と苦笑とともに溜め息を洩らし、試しに違うことを問いかけてみる。

「オヤツいるか?」

 ぴく。耳が一回転して震え、次いで首を回し、大きな瞳でこちらを見つめてくる。

「やっぱり聞いてるんじゃないか」

 言ってしまった手前はしょうがない。誠一は立ち上がると台所に向かう。彼女は市販の猫用オヤツよりも、誠一の手作りの方が好きなのだ。

「ちょっと早いけど、僕もお昼ご飯にしようかな。こっちで一緒に食べるか? ……そうか。よし、おいで」

 彼女が頷いてくれた気がしたので、呼ぶ。

「ベル」

 丁度一年前に首輪と一緒に彼女にプレゼントした名前。気に入ってくれたようで、名前を呼ぶといつも嬉しそうに返事をしてくれる。

 ぴったりと足下に寄り添うベルに時折おこぼれをあげながら、料理は進む。

 一人と一匹。

 今日も平和だった。

(完)

「だから先手を打たせてもらったよ。正直に言うと、ナコ一人が俺たちを妨害しようとしたところで差し支えはなかったはずだが、みんなの士気が下がる可能性があったからな」

 兄の背後では着々と準備が進んでいるようだ。ダメだ、何とかして止めないと。そう思って、何でもいいから水を差す言葉を発しようと口を開いたが、

「――!」

 後ろの男に口を塞がれる。片手でナコの両手を、もう片方で口を押さえられて、何も出来なくなる。それでも、と兄を睨み付けてみるが、

「もう俺たちは止まれない。ナコはここで祈っていろ。俺たちのターゲットにお前の恩人が乗っていないことを」

 後ろで準備が完了したようだ。ナコよりも早く兄はそれに気付き、熱くなっているメンバーに指示を出す。彼らは思い思いの表情とかけ声をそこかしこに向けて、自分たちを鼓舞しながら何かを運んで外へ向かっている。何か……巨大な、あれは、岩?

「あれを鉄のレールに置いてくるんだ。ちっぽけだろ? だが、あれだけのスピードのものだ。レールを外れるだけで大惨事の出来上がりだ」

 あれだけのものを運んでいるのに、彼らの顔に苦渋は見あたらない。歯を食いしばってはいても、その顔には笑みが――ある種の狂気を孕んだ笑みが浮かんでいる。そして、そんな彼らの背中すら、徐々に遠くなっていく。

「あと、二十分後に近くを通るデンシャをターゲットにあの岩を置いてくる。それまで、ここでおとなしく待っているんだ」

 だめ。やめて。せめて時間をずらして。

 いつもセイイチが帰宅する時間を考えると、そのデンシャに乗っていても全然おかしくはない。中止は無理でも実行の時間の変更さえしてくれれば、ナコには文句はない。が、それを伝えることさえ今のナコには出来なかった。必死でもがくも、ナコを押さえつけている男は離してくれなかった。

 兄はナコに言うべきことはもうない、と後ろの男に、頼んだぞ、とだけ言い残して、きびすを返す。

 兄の背中がどんどん遠くなる。完全に姿が見えなくなって少し経ったところで、男はナコの口を解放してくれた。勿論、両手はそのままだったが。

「離して! 離してよ!」

 力の限り身をよじり叫び声を後方に叩きつける。しかし、男はもう何も喋るつもりはないらしく、ただ無言でナコを拘束し続けている。

 交渉も情に訴えることも無駄だ、ということだろう。口から手を離してくれたのは、話を聞く準備があるのではなく、単にナコが息苦しくないように、ということのためか。この状況で使える武器は声だけであったナコだが、それすらも相手に通じなくなってしまった。

 どうしよう。

 ここ数日で口癖になってしまった言葉が頭を巡る。ぐるぐると回りながら渦を巻き、渦は何もかもを浸食していく。

 どうしよう。どうしよう、どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうし――

 肩に激しい痛みを感じて、ナコはいつの間にか閉じていた目を開ける。すぐそこに地面があった。頭の上の方から声が聞こえるが、何を言っているのかよく分からない。

 自分は倒れているようだ。何があったのかは分からないが、とりあえず身体を起こそうと両手を顔の横につき、

 両手が動くことに気付いて、一気に駆け出す。地を蹴るたびに肩に激痛が走る。が、動ける。もう掴まれていない。背中から声が追ってくるが、聞こえない。早く、兄たちの下へ。行って、止めなくては。

 まだ肩が痛い。おそらく、先ほどあまりにも混乱したために意識を手放してしまったのだろう。それも男に手を掴まれたまま。その際に肩を痛めて、そして男は突然の出来事に驚き手を離した、といったところか。

 考え事が結論まで辿り着いた時、ナコの目に兄の背中が映った。

「待って、お兄ちゃん!」

 声に反応し、振り返った兄の顔には、今度こそ驚愕が浮かんでいた。

「ナコ……何で、ここに?」

 今日、最初に会った時に発せられるべき言葉だ。一刻の猶予もないこの時に、何故かナコはこんな些細なことが可笑しく感じた。それでも口から出る言葉には、状況を変えたいという願いを込める。

「お願い、待って。中止して、なんて言わない。せめて、もう少しだけ時間を遅らせて。……多分、乗ってるの。セイイチが、次のデンシャに乗ってる。いつも帰ってくる時間から考えると、乗ってるの! ねえ、だから……お願い、お兄ちゃん……」

 ナコを拘束していた男が追いついてきたのを背中で感じる。またナコを捕まえようとしたのだろう。兄がナコの背後に、もういい、と合図を送る。

「ナコ。さっきも言ったように、もう俺たちは止まれないんだ。それに、残念ながら仕掛けはもう終わった。……あれを置くだけだからな」

 自嘲気味に口元を歪めた兄があごで示した方に目をやると、兄の仲間たちの影が固まっていて、その隙間から、レールに置かれた岩が見えた。

「俺たちはもう撤退する。こんなところでいつまでも群れていたらヤツらの目に付くかも知れないし、何より事故に巻き込まれかねない。だから、ナコ、お前も逃げるんだな」

 そう言うと、兄は仲間たちに、引き上げるぞ、と声をかけた。そしてそのまま、ナコには目もくれずに立ち去っていく。兄の仲間たちも何人かはこちらを気にしていたようだが、みな小走りで先ほどの場所へと戻っていく。

 ナコは兄に追いすがろうかとも考えたが、兄を説得するのは無理だと考え、彼らとは逆に、岩のある方へ駆けだした。兄は兄で、そんなナコを止めようとはしない。ナコ一人では何も出来ず、諦めてそのうちに逃げ出すだろう、とでも考えているのか。

 諦めない。あたしはセイイチを守る。

 この首で輝く鈴に賭けて。

 とは言ったものの、三十前後の労力で運んだものを、ナコだけでどうにか出来るわけもなく。ただ置かれているだけのはずの岩は、根を張ったようにびくともしなかった。

 それでも、直前よりも少し早い時間に代案を思い付いたのは幸運だったと思う。岩が置かれた鉄のレールを、セイイチの家とは逆の方向に出来る限り辿ったナコは、疲れ切った身体を直立させた。出来るだけ大きく見えるように、両手を拡げる。

 セイイチがチョーカーをくれて、本当に良かった。キラキラと光を反射する鈴がこんなところで役に立つなんて、思ってもなかった。

 数分は走っただろうか。あの岩が置いてある場所から大分距離を開けることが出来た。近すぎては意味がない。デンシャに止まってもらうにしても、あまりに近いと速度を落としきれずに結局は事故に繋がるだろう。

 ナコが思い付いた、作戦その三。

 セイイチでも兄でもなく、デンシャを止める。デンシャを動かしている者も、通り道に障害物があることが分かればデンシャを止めるだろう。

 しかし、いくらあの岩が大きいとは言え、あれに気付いてから電車を止めたのでは遅すぎる。それよりも早い段階で、何らかのアピールをしなければ。

 何をもってアピールをするか。我ながら頭の悪い方法しか思い付かなかったと思う。しかし、その選択をした時、ナコは特に恐怖を感じることはなかった。むしろ、この方法でセイイチを守ることが出来ることの喜びがあふれてくるようだった。

 何か硬いもの同士が擦れ合う甲高い音が響き渡る。ナコの視界のほとんどは、今やデンシャからのまばゆい光で埋め尽くされていた。その直前に、デンシャを操作しているであろう者が驚き焦っている顔をしているのが見えた。ナコの姿が見えたのだろう。きっと、首の鈴の輝きでひときわ目立ったに違いない。

 これで、あの岩に辿り着くまでにはデンシャが止まる。ナコの顔は晴れやかなものになっているに違いない。

 間もなく、デンシャとナコは接触する。

 デンシャの光が、もうすぐそこまで来ている。鉄の塊が押し出してくる空気の圧力を感じる。甲高い音はもう絶叫のようだ。口の中に鉄の味が拡がっている気がする。

 ばいばい、セイイチ。

 目を閉じて、別れの言葉を呟く。

 あ、そういえば。セイイチが考えてくれてるはずの、あたしの名前。何なんだろうな。

 ナコの意識は、そこで途切れた。

 電車が、急停止した。

「あれ? キミは……」

 振り返るとそこには、よく知った顔ではなかったが、見たことのある顔があった。確か、

「あ、あの時お兄ちゃんと一緒にいた?」

 声を掛けてきた男が頷く。兄と再会した時に後ろに控えていた二人の内の一人だ。

「よかった、探していたんだ」

 口を開いたナコは固まってしまった。今正に言おうとしていた台詞が男の口から出てきたからだ。ナコが代わりの言葉を継ぐことが出来ないでいると、男はそのまま続ける。

「キミのお兄さんに言われてね。この近くにキミが来ているかも知れないから、探して連れてきてくれ、って。いや、正直に言うと僕は半信半疑だったから驚いたよ、本当にキミがいて」

 まだナコは困惑から抜け出せていない。

兄はナコが来ることを知っていた? いや、男は『来ているかもしれない』と兄が言っていたと話した。ということは、兄が推測しただけか。しかし、こうしてナコを探させているということは確信めいた何かがあったのか――。

「早速だが、来てくれ。お兄さんが待っている。こっちだ」

 男はナコの手を掴むと、スタスタと迷いのない足取りで歩き出す。ナコはそれを拒む体力も理由も見つけられないまま、引きずられるように後を付いていった。

 数分ほども歩いたところで、男が立ち止まる。周りを見ても兄どころか誰もいない。こんなところで一体どうしたのか。ナコがそう思っていると、

「そこを入ったところだ」

 男が細い路地を指さす。しかし、そこは往路でナコが数多く覗き込んだ路地の内の一つだったと思う。詳しくは覚えていないが、こんな何もない一本道を沢山見てきた気がする。

 ナコの訝しげな様子にも気付かずに――いや、気付いているのかも知れないが、男は止まった歩みを再開させる。

 数歩も行かないうちにナコは違和感を覚え、またすぐに違和感の正体を知る。離れたところからだと一本道の何でもない路地に見えるが、近づくと細い脇道が見えてくる。先住民たちの大きさでは通れそうにないが、ナコたちが通るには十分な広さだ。

 案の定、男はナコをそちらへと誘う。脇道の広さから、兄たちがこの通路を造ったのかと思ったが、闇が半分ほど降りている中で、所々でボンヤリと浮かんでいる灯りはこちらのもののようだ。

 そうして左右の壁に視線を何度か往復させながら進むと、一段と明るく、そして広い場所に出た。そこには、

「お兄ちゃん!」

「……やっぱりか」

 朝から半日かけて探していた背中がそこにあった。兄だけではなく、そこにいたのは三十名前後の集団だった。ほとんどが若い男のようだったが、ちらほらと女性の姿も見える。みな一様に決意を湛えた瞳を兄に向け、何かを待っている。何を待っているのか。それは、

「みんな、今日まで良くやってくれた!」

 先ほどから背を向けたままの兄が声を張り上げる。勿論ナコに対してではない。場の空気が張りつめたものに変わる。

「俺たちは理不尽にヤツらによってこの世界に連れてこられ、無慈悲に虐げられる日々を過ごしてきた! その間、俺たちが出来た抵抗と言えば、逃げ、隠れることだけだった」

 雰囲気に飲まれ、ナコは動くことが出来なかった。目的を忘れていたわけでは決してない。しかし、

「しかし! 今日、俺たちは反撃ののろしを上げる! ヤツらに俺たちの存在を示し、一矢を報いるのだ!」

 兄の言葉に、挙動に目が惹かれてしまう。ナコの知らない四年間で兄は得なければならなかったのだろう。激情とカリスマ性とを。思えば、

「思えば、この作戦そのものに疑問の声も上がる中、よく俺のような若者にみんなついて来てくれた。……ありがとう。ギリギリまで直接攻撃を主張していた者も理解を示してくれた。礼を言う。……俺はもう、誰も失いたくないんだ!」

 こちらで初めて再開した時、既に違和感はあったのだ。静かだが、確かな攻撃性が兄の深いところにあった。こちらで何か大きな出来事があったのだろう。ただ、それでも、

「それでも、今日の作戦が成功すれば、俺たちへのヤツらの攻撃が激化することは間違いないだろう。だが、俺は信じている! 俺たちが今日までの苦難の夜を越えて、希望という朝を迎えることが出来ると! 俺たち全員が自由を手にするんだ! 誰一人欠けることなく! ヤツらに見せつけてやるんだ! 俺たちの爪を! 牙を! 自由への咆吼を!」

 ナコはナコが守りたい者のために、兄を止めなければならない。三十余りの口から轟く叫び声が辺りに響く中、ナコは兄へと駆け寄る。いや、駆け寄ろうとしたのだが、

「おっと。悪いけど、キミはこっちだ」

 男に手を掴まれて、ナコは足止めされる。ナコをここまで連れてきた男だ。驚いて振り向いた時には、もう片方の手も掴まれて背中でがっちりと固定されていた。

「離して! 何するの!」

 首を後ろに回して叫ぶ。しかし、ナコの問いに答えたのはその男ではなかった。

「来ると思ってたよ」

 顔を正面に戻す。すぐそこに兄が立っていた。表情はよく分からない。喜怒哀楽を全て足したような。もしくはその全てを喪失したような。

「どうしてだろうな。ナコが来る確率なんて一パーセントもなかったはずなのに。俺はお前が来ると確信していたよ。お前が、俺を止めに来る、ってな」

 リーダーである兄がナコと話をしていても、気に留める者はいない。各々の作業に取りかかっていて、誰も気付いていないようだ。

 兄は続ける。

「待って! 行かないで! あたしを置いていかないで!」

 せっぱ詰まると、自然と恥ずかしい台詞が出てくるものだ、と初めて知った。後で思い出して顔が熱くなりそうだが、今はなりふり構っていられない。しかし、セイイチは、

「どうしたんだよ、今日は? いつもはこんなにまとわりついてこないのに」

 ただ困惑しているだけのようだ。こちらの言葉が通じないことが、これほどもどかしかったことはない。彼にしがみついてみても、とどまろうという素振りは見えず、ただ、いかにしてナコをなだめようかと考えているだけのようだ。

「行っちゃだめ! 危ないかも知れないの! ……せめてデンシャには乗らないで! お願いだから!」

 少しでも危機感を伝えようと言葉の限りを尽くすが、ただの一単語すらも伝わっていない。セイイチは困った表情をナコと彼の手首で回り続けている針とに交互に向けていたが、

「あ、そうだ」

 何かを思い出したのか、不意に鞄をごそごそと探ると、帯のような細長い物を取り出して、

「この間、……で見つけたんだ。キミに似合うと思って。ほら、着けてあげるよ」

 と、ナコの首の後ろに手を伸ばす。ちりん、と澄んだ音が数回響いた頃には、

「うん、やっぱり良く似合うよ。その鈴がキラキラしてていいだろ?」

 すぐ近くにあったセイイチの顔が離れていく。そして、綺麗な音色を奏でていた鈴がナコの顔のすぐ下で、また一度震えた。

 首に巻かれているのでナコからはほとんど見えないが、セイイチが鞄から取り出したのは鈴をあしらったチョーカーのようだ。

「キミへのプレゼントだ。その、ケジメ、みたいなものなんだけど。もしキミがどこにも行くあてがないんだったら、僕と一緒に暮らさないかな、と思ってさ」

 何とも言い表しようがない感情がナコの身体を走る。焦りと不安でいっぱいだったところに驚きと喜びが混じって、一切の挙動が止まった。そして、身体が硬直から抜け出して最初に行ったことは、首元の鈴を揺らすことだった。

 澄んだ音がナコを震わせる。見えはしないが、自然と視線が下がる。しかし、音の余韻に浸る間もなく、

「じゃ、行ってくる。……そうだ、帰ってくるまでにキミの名前を考えとくよ」

 セイイチの声が頭上から届く。ナコがハッと顔を上げた時には、閉まりゆくドアがセイイチの微笑みを遮ろうとしていて――

「ま、待って!」

 一歩目を踏み出す前にドアが音を立てる。

 突然の出来事に我を忘れたせいで、作戦その一は失敗してしまった。後悔で思考が停止しそうになるナコだったが。

「……まだ、間に合うかも」

 今から自分も外に出てセイイチを追いかければ、彼を引き止められるかも知れない。それに、作戦その二を実行するためにはいずれにせよ外に出る必要がある。

 頭を振って気持ちを切り替え、いつもの窓へと向かう。窓に飛びつき、地面に着地。その度に鳴る鈴の音が、ナコを凛とした気持ちにさせてくれた。

 地面を駆けるたびに鳴る鈴の音に背中を押され、四日前にセイイチの後をつけたルートを急いで辿った。しかし、見慣れた後ろ姿は見つけることが出来なかった。ナコが玄関で引き止めたために、セイイチも急いでデンシャに向かったのだろう。もしかしたらどこかで追い越してしまったのかも、とデンシャと先住民が出入りする施設の前で少しばかり待ってみたのだが、結局セイイチは見つからなかった。先に行ってしまったと考える方が自然だ。

 となると、急いで作戦その二を実行しなければ――兄たちを探さなければならない。デンシャの通り道に何か仕掛けをするようなことを言っていたから、その通り沿いを探すのが良いだろう。

 そう判断してナコは、以前セイイチを乗せたデンシャが向かった方へと顔を向ける。長い長い鉄のレールが横たわっていて、どこまでも続いているようにさえ思う。ナコの細い足でどこまで行けるかは分からないが、行ける所までは行かないと。

 ナコは走り出す。まだ高くない位置にある太陽が少し眩しかった。

「……どうしよう」

 漏れた溜め息は落胆からか疲れからか。おそらくどちらからもだろう。何度目かの一時停止中に、ナコは空を見上げて顔をしかめる。兄を探し始めた時には登り始めだった太陽は、空をぐるっと巡って、今はもう地面に半分隠れていた。

 もうどれくらい時間が経ったのだろうか。

探し始めてからしばらく走っていると、見覚えのある光景に辿り着いた。ナコがセイイチに拾われた場所の付近だ。セイイチがデンシャで往復しているのはココまでだろうと判断して、折り返して来て、今丁度、

「真ん中くらいかな……?」

 往路と同じくらいの時間をかけて戻ってきたはずなのだが、やはり疲労がナコの身体を重くしていたようだ。セイイチが部屋に帰ってくる時間まではまだしばらくあるが、このままのペースではセイイチを部屋で出迎えることは出来そうにない。もっとも、セイイチが何事もなく帰ってくればの話だが。

 途中で何度も擦れ違い、追い抜かれたデンシャの速度から考えると、セイイチが乗る帰りのデンシャが走り始めるまでにもまだ少し時間があるが、しかし余裕があるわけでもない。

いっそ、兄たちがどこにも見つからないまま時間が過ぎてくれれば。ナコが部屋に帰るとセイイチが出迎えてくれて、翌日には見知らぬ誰かの不幸を二人で悼んで……。

もしかしたら訪れるかも知れない、そんなささやかな妄想はしかし、離れたところから聞こえた声にかき消された。

次の日。ナコはセイイチが出かけるのを見送ると、すぐに自分も部屋から抜け出した。くるりと建物を半周回ると、どこかへ歩いていくセイイチの背中が見えた。ナコは物陰に隠れながら彼の後を追う。

彼がナコを置いて外に出かける日、いつも同じ時間に部屋を出て、同じ時間に部屋に帰ってくる。どこに出かけているのかは知らないが、目的地までは同じルートを行き来しているものと推測出来る。同じ交通手段を使っている、とも。

昨日もいつも通りの時間に帰ってきたセイイチは、デンシャで帰ってきたように言っていた。それでも、毎日デンシャを使っているとは確信が持てない、というか持ちなくないので、今日それを確認するために後を付けているのだが。

徐々に先住民たちが多くなってきた。気付かれずに後を付けるには都合がよいが、それと同時にイヤな予感が増してきた。

そして、その予感はすぐに現実へと変わった。

大きな建物――いや、施設か。たくさんの先住民たちが一つの施設の中へと入っていく。入っていく数に比べると少ないが、そこから出てくる先住民もいる。

そして、出入りをしているのは先住民だけではない。

大きな四角い鉄の箱。それがいくつも連なった物が、その施設を出たり入ったりしている。そう言えば、初めてセイイチに連れてこられた時、これに乗せられて来た記憶がある。これがデンシャだろう。

セイイチがその施設に吸い込まれていくのを見送り、念のためにしばし待つこと数分。一つの箱の窓から見つけたくなかった顔を見つけて、ナコはくるりと反転し、来た道を戻る。

まだ四日ある。考えよう。自分に出来ることを見つけて、実行しよう。この世界で生きていく意味はそこにある。

セイイチの部屋へ帰るナコの足は、自然と速くなっていた。

一番大きな可能性として、兄たちがターゲットとしているデンシャにセイイチが乗らないケースが浮かんだ。が、すぐにこの考えは頭を振って捨てた。この場合、何もしなくてもセイイチは無事なので、考える必要は全くない。

問題なのは、セイイチがいつも乗っているデンシャがターゲットとなった場合だ。

対処方法は二つ。一つ、セイイチを四日後のデンシャに乗せないようにする。そしてもう一つ、兄たちの『仕掛け』を未然に防ぐ。

前者は当日にならなければどうしようもないだろうから、それまでは保留しておくとして、後者。

必要な情報は、どこに、いつ、どんな仕掛けをするのか。そして、その情報を得るためには、

「また、お兄ちゃんを探さなきゃ」

 方針が決まった。外に出よう。

 と考えていたのが、三日前。

「どうしよう……」

 全く成果のないまま、兄たちの計画が明日には実行されようとしている。あの日に兄に再会したのが嘘だったかのように、兄たちの影すらも見つけることは出来なかった。

 その代わりに一度だけチンピラ連中に絡まれそうになったことがあったが、アイツらが来た! とナコが叫ぶと、すぐにバラバラと逃げていった。先住民=アイツらで通じるらしく、さらに先住民たちは危害を加えてくる者、という共通認識が彼らの中ではあるようだった。

「何か、最近元気ないよな? どうした? 怪我の具合が悪くなったのか?」

 本気で心配そうにしているセイイチを見ていると、そんな先住民がいることは想像さえ出来ないが。

 なんでもない、と答えて、ナコは夕食を再開する。食事をしながら、頭の中は現在ではなく明日へと飛んでいる。

 勝負は明日。まずは朝、セイイチを引き止める。今日の夜から眠らずに兄たちを探すという選択肢もあったが、可能性を考えるとセイイチを引き止めるために残った方が良い気がした。どちらにせよ、か細い可能性だとは思うが。

 そして、朝の引き止めが上手くいかなかったら、兄たちを探す。もしもセイイチが乗るデンシャをターゲットとして兄たちが仕掛けをするのならば、明日が一番見つけやすいだろう。

 明日のことばかりを考えていたら食事が喉を通らなくなってきた。セイイチには悪いが、今日の夕食は残させてもらおう。

「ごめんね、セイイチ。今日はもう食べられそうにないよ」

「え? もしかして、もういいのか? ……ホントに大丈夫か?」

 心配のしすぎで情けない表情になっているセイイチを見て、ナコは申し訳なく思うと同時に安堵した。これで、明日の引き止めが上手くいく確率が上がったかも。

 今日は目一杯心配したまま明日を迎えてもらおう。セイイチに背を向けてナコは早々と寝床へと向かう。まだまだ眠れそうにないが、目を閉じて明日を思う。

 大丈夫。やってみせる。

 決意を抱いて、ナコは丸くなる。どうか、この想いが、孵りますように。