「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条) | 御木白日のブログ

御木白日のブログ

学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.「世界平和」の新たな意味



 

(1)新しい意味


 世界平和といいますと、この地球上に戦争がないこと、戦争が起きないようにすること、が普通の意味だと思います。しかしこの第14条の「世界平和」の意味はそれにとどまるものではありません。


 「世界平和」とはたんに戦争がない、戦争をしないという意味だけではなく、あなたと他の人々との間の平和、あなたとあなたを取り巻くすべての環境との平和をも意味しています。いってみれば、それはこの宇宙全体の「調和とバランス」ということです。


 二代教祖は、「人生は芸術である、楽しかるべきである」の教えから、世界平和という言葉に新たな意味を展開させ、人生の目的は世界平和のため、世のため人のための自己表現に終始するにあると教えるのです。


  〝PLの教義の根幹をなすものは「人生は芸術である」でありますが、それはあくまで「世界平和の為の一切である」の上に立ってのそれなのであります。〟


  〝平和は円満であり、調和であります。それは芸術の至奥の境地であります。世界平和ということは、人類の共存共栄のバランスのとれたハーモニーのある平和状態 — 人類の高度な文化の集合蓄積の上に展開される理想の楽園というべきであります。〟


  〝人生表現の妙諦があまねく人類に浸透したあかつきこそ人類は真福 — 大平和を謳歌しながら、地上天国を建設する法悦に生きることができるのである。〟


 二代教祖はこの地球上に戦争がないという「世界平和」の一般的な意味を基盤としながらも、それにとどまることなく、全人類がお互いに自由に自己を表現し、芸術し合い、同時にお互いの自己表現、芸術を鑑賞し合い、睦み合って暮らしていく世界の在り方、あるいはそのような在り方を目指すことを「世界平和」と捉えるのです。人が芸術し、芸術し合うのに最高の条件、状態が「世界平和」です。


 「世界平和」とは「調和とバランス」そのもののことで、それは神が人間に期待する方向性、すなわち神の方向性です。私たちの人生、芸術、自己表現はすべて世界平和のためのものです。それは身近な言葉でいうと「世のため人のため」となります。


 世界平和のため、「世のため人のため」という神の方向性にある自己表現を実践するのでなくては、人は心地よくありませんし、ほんとうに楽しくなることもないのです。二代教祖は「世界平和」に「よのためひとのため」とルビを振ることがしばしばでした。


(2)芸術を妨げる戦争


 戦争のないことは世界平和にとって最も基本的な条件です。日常生活では、「世界平和イコール戦争のないこと」で十分でしょう。戦争や内戦、武力紛争に巻き込まれてしまったとき、人は自由に自己を表現し芸術することがとても苦しく困難になってしまいます。それは人類の歴史が教えるところです。外部から政治的、暴力的な強制力が働くと、私たちの内なる心はすさんでしまい、自由で創意工夫に満ちた表現をしようという気力も失せてしまいがちになります。


 人の日常生活そのものが芸術です。家事をする、育児をする、仕事をする、人と雑談する、ボランティアに参加する……等々、ことごとく芸術なのです。そのすべての行為において世のため人のため、「世界平和のためにやっているのだ」というイメージを持つことなのです。それによって万事が楽しく、一つ一つが意義あるものになってくるのです。


 戦時体制に入った戦前、戦中の日本にあって、それが人の自由な芸術にいかに致命的な妨げとなるかを「ひとのみち教団事件」を通して身をもって体験した二代教祖にとって「世界平和」という観念の範囲、射程は、日常生活から芸術する人類の持続可能性(sustainability=サステナビリティ)と人間の条件そのものにまで達しているのです。


(3)大平和祈念塔


 人の芸術を妨げる最大のものである戦争の犠牲になられた方々の霊を慰め、お祈りし、戦争の残酷さ、悲惨さ、無意味さを永遠に忘れないために二代教祖が建立したモニュメントが「大平和祈念塔」(正式な名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」)です。歴史上のあらゆる戦没者の慰霊、鎮魂のための「大平和祈念塔」です。人種・民族・国家・地域、また宗教・宗派・信条などを問わず、すべての戦没者の慰霊、鎮魂なのです。二度と同じ戦禍を起こさないという決意と覚悟の表明、宣言です。


 ここに「人生は芸術である、楽しかるべきである」の教えの広さ、射程が無限であることが示されており、二代教祖の精神造型、宗教芸術の一つの極致を見ることができます。


  〝この大平和祈念塔には、宗派を超え国境を越え、世界のあらゆる戦争犠牲者の霊をまつるのである。と同時に知りうる限りの戦場や、戦火でなくなった親・子・兄弟・姉妹・親せきの人々の戒名、俗名をマイクロフィルムにとって、金の聖函に収める。この塔にご協力くださったすべての会員の祖霊も併せて合祀するものである。


  そして、この黄金の聖函を大平和祈念塔神殿に安置し、人類が再び戦争という罪を犯さないよう、それらの「みたま」を幾久しく後世に伝えるつもりである。


  イデオロギーの対立を背景に持つ平和運動は、平和を大義名分とする戦争への道である。いかなる理由があろうと、戦争は罪悪である。この事実を人類に徹底して知らしめ、絶対非戦の思想を全世界に押し広めなければならない。人間の生活はすべての面において美を創造し、「まこと」を造型することにある。つまり物の束縛を解放されイデオロギーの対立を克服し、真の平和社会を築く人間主体の確立にある。


  この「大平和祈念塔」は単なるモニュマンではない。人類の幸福を願うすべての人々の塔であり、欣求平和のシンボル・タワーなのである。〟


  〝なぜ、大平和記念塔は国家や宗教にとらわれずにみたまを奉祀しているのかと言いますと、「真理は一つ」だからです。一つの真理とは何か。それは「平和」です。「平和」は調和であり、調べであり、生きることそれ自体なのです。〟

 



2.調和とバランス


 


(1)不協和音も必要


 二代教祖は


  〝人の生存の意義はあくまで他と共に調和を保ち楽しく暮らすところにあり、社会を無視した表現は自己をも無視したことになることを自覚すべきである〟


 と。人の表現は、一つの社会、集団において調和のとれたものであっても、より大きな社会、より大きな集団と調和するものでなくてはならない。つまり人の表現はより大きな社会へと開かれたもので、独り善がりになってはいけないのです。


 二代教祖は「人生は芸術である」と教え、人の芸術は「世界平和」という神の方向性にあること、「世界平和」とはあなたと世界全体を包むこの宇宙全体の「調和とバランス」にあると説きます。


 「調和とバランス」という言葉は私たちに音楽を連想させます。


 20世紀の初め、ロシアの作曲家ストラビンスキー(1882〜1971)のバレエ音楽『春の祭典』がフランスのパリで初演(1913)されたとき、会場はブーイングの嵐で大混乱になりました。打楽器などの不協和音を大胆に取り入れた音楽と複雑で不調和な動きによる振り付けが会場に大騒動を巻き起こしたのです。それまでの音楽的常識としての「調和とバランス」とかけ離れていたため、音楽通、バレエ通を自負するパリの聴衆にとって、とても受け入れることのできない非常識、不愉快でスキャンダラスなものだったのです。しかし、現在ではストラビンスキーの代表作であると同時に、20世紀最大の革新的作品の一つとして高く評価されるに至っています。


 それまでならば、とんでもないとされていた不協和音でしたが、大胆にそれを取り込むことによって、より高度の調和とバランスが実現することを人々は知ることになったのです。


 不協和音が入ることによって、変化に富んだ豊かで実りある新しい美が生まれることに人々は気付きました。新しい美がそこに出現したのです。美の概念がそれまでよりもずっと大きく広くなったのです。不協和音が協和音の美しさをさらに引き立たせることにもなりました。


(2)多様性の中の調和とバランス


 音楽における不協和音の役割は、人間の集団、社会における各々のメンバーの役割を考える場合にも応用できます。


 似たような持ち味、個性、価値観の人たちばかりの集団は、一見安定しているように見えますが、しばらくすると創造性を失い活力がなくなり衰退しがちで持続可能性(サスティナビリティ)という点で問題があります。近親婚、近親交配を続ける人や動植物の集団が長続きしにくいのも同じ原理に基づくものと思われます。


 メンバーそれぞれの持ち味、個性、価値観が均一ではなく多様(ダイバーシティ)であることを容認しながら、しかも「調和とバランス」を保ちつつ統一されている集団や社会こそ持続可能であることは、歴史が示しているところです。そのような集団、社会において各々のメンバーは自由で創造性に富んだ芸術をする、つまり人生を楽しむことができます。また、多様で異質な人材がそろっているわけですから、環境の急な変化にも素早く対応することができる人材に事欠くことがなく、持続性が高くなります。


(3)不調和の調和


 この第14条の「世界平和」を日常の言葉で表現しますと「世のため人のため」となり、「調和とバランス」になります。


 相対性理論で有名な20世紀最大の物理学者ともいわれるアインシュタイン(1879〜1955)は、「この世界の内なる調和を信ずることなくしては、いかなる科学もあり得ない」と言いました。


 調和の本質について、「逆向きに働き合う調和」(パリントロポス・ハルモニエー)といったのは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(前540頃〜前480頃)です。調和は、「反対の一致」、つまり相互に対立するものの同時進行において実現されるのです。「ローソクの炎はほどよく消え、ほどよく燃えることによって燃え続けることができる」と、そして「同じ川に二度入ることはできない」ともヘラクレイトスは言っています。鴨長明(かものちょうめい 1155〜1216)『方丈記』の冒頭「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」が連想されます。また分子生物学者の福岡伸一さんの「生命体は細胞の分解と合成を同時進行させながら生命を維持している。それが生命の本質である」という「動的平衡論」も同じ真理を表現していると思います。ここで注意すべきなのは、「ほどよく燃え、ほどよく消え」でなく、「ほどよく消え、ほどよく燃え」であること。同じように、「かつ結び、かつ消え」でなく、「かつ消え、かつ結び」であること、「合成と分解」ではなく「分解と合成」であることです。「創造的破壊」の元ともなっているダイナミックな考え方であり、ものごとの真理です。


 調和とはたんに平面的な調和にとどまることなく、立体的な調和、つまり調和を超えた調和、「不調和の調和」ともいうべき段階、レベルにまで達しなければなりません。不協和音が加わることによって、より奥の深い感動的な新しい音楽が生まれるのと同じように、異なる持ち味、個性、価値観を持つ人たちを許容する集団、社会こそが自由で創造性に富んだ芸術を可能にするのです。


 平面的な調和の行き着く先は、陳腐で退屈で新しい芸術を生み出す活力を失った世界です。ただ注意しなければならないのは、不協和音が多すぎてはただの雑音になってしまいますし、多様性ばかりで、そこにより高次の統一性が見いだせなければ、とりとめのない混乱と不安に人は陥ってしまうことです。より高次の統一性とはその集団や社会が保持している伝統であり文化であり歴史と共にあるということです。たとえば、日本国の「国民」とは、現在生きている私たちだけではなく、すでに亡くなられた人々、そしてこれから生まれてくる人々をも含んだ「国民」であるということです。「PL人」とは、現在の教師、会員だけでなく、すでに亡くなられた教師、会員の方々、これから来られる教師、会員の方々を含んだ「PL人」なのです。


 伝統と文化、歴史を共有できるとき、人は心の安定と充足感、活力を得ることができるのです。それこそが「不調和の調和」であり、「調和とバランス」の本質です。


(4)「調和とバランス」と自他祝福


 多様で異質な個性を持った人々が一つの「調和とバランス」を保って一つの集団を作り上げているとき、とりあえず、そこにはおのずと自他祝福の心が働いています(「自他を祝福せよ」PL処世訓第10条)。とりあえず、というのは、そのような集団も、常により大きな集団へ開かれている存在でなければならないということです。現状に満足しきってしまうことなく、常にダイナミックに思考し、行動しなければならないのです。


 それは「自我無きところに汝(なんじ)がある」(PL処世訓第6条)に気付くことでもあります。その気付きによって、自分とは違った異質の個性、考えを持つ他人でも受け入れることができ、多様で豊かで、しかも統一性をもった世界にわが身を置くことができることになるのです。そのような世界でこそ人は素晴らしい芸術、人生が可能であり、他の人の芸術、人生を虚心に鑑賞し、共に楽しむことができるのです。


 個性の多様性と多様性を許容する寛容の心が人の自己表現、芸術を幅広く奥行きをもった豊饒なものにしてくれます。多様性と寛容の心を失った集団は活力を失い、自己満足した単調で退屈なものとなり、ついには閉塞感にとらわれてしまうことになります。


(5)「世界平和」を実現させる「愛」


 「自我無きところに汝(なんじ)がある」(PL処世訓第6条)、「自他を祝福せよ」(PL処世訓第10条)、そして「世界平和の為の一切である」との自覚は、当然のこととして私たちを「愛」へと導いてくれます。


 「愛」こそが本当の「世界平和」(「調和とバランス」)の本質であること、「世界平和」は「愛」のたまものであることに私たちは気付くのです。愛なき調和、愛なき平和は考えることができません。調和すなわち愛、平和すなわち愛です。


 「愛」の原型は、神の人に対する愛であり、人の神に対する愛です。そして、神と人というタテの関係がヨコに変換された人と人との愛となるのです。


 美輪明宏さんの興味深いお話があります。「人と待ち合わせをしたのに1時間も2時間も待たされたとき、自分がばかにされたと腹が立ち、怒ります。でもそれが自分の愛する人であったなら、何か異変が起きたのではないかと、怒るのではなく心配になってくるものです」と。


 愛があるかないかによって人の考え、行動が変わってきます。愛によって世界が変わるのです。「愛」と「世界平和」は同じ意味といってもよいでしょう。愛はすべてを許し、肯定し、受け入れる素晴らしい力を持っています。すでに皆さんが実感しておられることだと思います。その実感を皆さんが表現し実践することが大切なのです。


 


3.「世界平和」を妨げる人間の執着心



 

(1)「人はつき過ぎる動物である」


 お金とか物に「執着する」こと、あるいは名誉心や肉身愛に「とらわれ過ぎる」ことはよき芸術を妨げます。「もの・こと」に「執着する」、「とらわれ過ぎる」ことを二代教祖は「つき過ぎる」と表現しました。


 二代教祖は特に信仰につき過ぎること、「つき過ぎの信仰」は迷信に陥り、「世界平和」を妨げる大きな原因となることを警告します。「宗教家らしくない宗教家」といわれた所以(ゆえん)でもありますが、「宗教と科学は一致すべきである」とする二代教祖にとっては当然の言なのでしょう。


(2)「つき過ぎた信仰」


 二代教祖は、「パーフェクト リバティー(完全なる自由)」の教えからして、信仰も自由であることを教えています。


  〝神聖なる信仰の道が、神の栄光灼(あらたか)なるべき信仰の道が、そんな不自由なことになるとすれば、矛盾撞着も甚だしいといわねばなりません。


  おしえおやはかつて「人はつき過ぎる動物なり」といってのけたことがありますが、人が「もの・こと」につき過ぎるところから、一事をもって心理の全部であるかのように錯覚することになるものであります。そこに迷信が発生し、多くの誇大妄想狂が生まれるのです。多くの宗教をはじめとし、祈祷・呪い・方位方角・姓名判断・干支・相性・心霊術の類いから、はては科学迷信の類いさえおこるに至るのです。インチキ医療・インチキ薬品・インチキ化学肥料……等々、「つき過ぎ」の迷いは果てしなく広がるのであります。〟


  〝権力者が権力につき過ぎ、宗教家が信仰につき過ぎ、芸術家が芸術につき過ぎ、哀れにも滑稽な姿をそこに見出すのであります。〟


 「宗教と科学は一致すべきである」との初代教祖以来の教えに基づく、いかにも歯切れの良い二代教祖の解説です。二代教祖は宗教家でありながら、より正確には宗教家であるからこそ、信仰の神聖であることを忘れてしまい、世俗的に、それでいて、信仰につき過ぎることになる誤りを厳しく戒めます。


 いわゆる「カルト」の起源にまで、二代教祖はいい及んでいるのです。「カルト問題は宗教に限ったことではなく、人間が自分の思いどおりに人間を支配しようとする願望から起きる構造の問題」とされていますが、その本質は「つき過ぎ」にあるのです。


 一切は世界平和のためでなければならない、信仰も「世界平和」のためのものでなくてはいけないと二代教祖は説くのです。


(3)二代教祖の宗教批判


 真の宗教家は、厳しい宗教批判を行ってきています。
 いわゆる「宗教」、いわゆる「宗教家」を二代教祖は否定します。特殊な神、特殊な信仰につき過ぎ、普遍からかけ離れているからです。真の神を忘れているのです。


 「神は宗教ではない」と根源的な宗教批判を行った20世紀最大のプロテスタント神学者といわれるカール・バルト(1886〜1968)に通じています。


 ちなみにナザレのイエスは当時のユダヤ教に対して厳しい宗教批判、宗教家批判を行い、その言動、生き方からキリスト教が生まれることになりました。


 文芸評論家の柄谷行人(からたにこうじん)さんは「普遍宗教は宗教の批判としてあらわれますが、まもなくそれ自体、宗教になってしまう」と、いわゆる「宗教」は真の宗教とは違うことを前提に論を進めています。

 



4.PL理念に立脚する平和運動


 


 二代教祖は「世界平和の為の一切である」についての解説との関連で「PL教団の目的」について次のように説いています。


  〝我々は「世界平和の為の一切である」と信念して、全世界の平和、全人類の恒久平和を欣求し、これを目的としての集団芸術を展開しているということであります。「人生は芸術である」という一大真理を掲げて、ここに平和運動を展開しているのです。


  人の表現は世界平和のためという目的を持つとき、一番気持ちの良い屈託のない表現に成るのです。神を知り、みしらせを知り、PL理念をマスターし、神にる自己表現の妙諦を把握していくところに、人としての限りない喜びがあるのであります。〟


  〝我々はあくまでも、調和のとれた人間同士の美しい気持ちのあり通うような平和運動を展開したいものと思います。世界の隅々まで平和の音楽、平和のメロディーが流れていくような、そういう平和を欣求(ごんぐ)するのであります。


  そして、人生が芸術であるということ、人は神の表現であるということ、人の一生は自己表現であるということ、世界平和の為の一切であるということ……を普(あまね)く世界の人々にわかってもらい、共に平和世界を一日も早く具現すべくささげさせていただくことが吾らの生きがいであり、無上の喜びとするところであり、そのためにももっと能率的な集団芸術・結び芸術をなさんとしてのPL教団であることを、あらためて申し上げたいのであります。〟


 このような二代教祖の教え、信念のシンボルが「大平和祈念塔」であることはすでに述べたとおりです。