「人は平等である」(PL処世訓第9条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.神の子としての平等
 「人は平等である」の教えにはいろいろな意味が込められています。
 すべての人は神から「心」(分霊・わけみたま)をいただき、芸術すべく生かされ、芸術して生きていることにおいて平等です。心には、感情的な側面と理性的な側面があります。理性は他の動物にはない人間独特のもので、それが感情と相まって芸術することができるのです。
 人類ことごとく神の子ですから、すべての人は平等なのです。
 初代教祖は「わが子も他人の子も同じである、等しく神の子である」と教えています。
 二代教祖は言います。
 〝人は平等です。男性も女性も目上も目下も、学問のある人も無い人も、豊かな人も貧しい人も、人としてすべて平等なのです。人はそれぞれ独自の個性を与えられ、真の自由の機能を与えられた神の子としての存在なのです。己を虚しくして人を尊び、相手の人格を立て相手の表現を尊んでいくところに、初めて「人は平等である」の原理に適うことになるのです。またそうすることが自分でも気持が良いし、楽しいのであります。自分も人から尊ばれることになるのです。「人は平等である」のにかかわらず、人を粗末にするようなことをするから、自分もまた粗末にされるような神業(かんわざ)になるのであり、人を無視するようなことをするから、自分もまた人から無視されるようなことになるのです〟
 人は生まれながらにして独特の持ち味を持った個性を神からあたえられています。そのように神がその人として現れているのです。その人の個性は唯一無二のものです。地球上に70億以上の人が存在しているそうですが、万人万様、それぞれ違った独特の持ち味のある個性を持っています。たった一つしか存在していないのですから、それらはいずれも素晴らしいものです。なぜあなたはこの世に一人しかいないのでしょうか?「この世界に同じものが存在することはないのだ」とドイツの哲学者ライプニッツ(1646〜1716)は説明しています。
 持ち味とは、例えば、やさしさ、やわらかさ、繊細、大胆、おおらかさ、気配り等、その人独特の美的な味わいのある心の形ともいうべきものです。しかし、その独特の持ち味も、表現されてこそはじめて明らかになるもので、表現の形の中にそれらはにじみ出てくるものです。
 その持ち味である個性の現れ方は、表現する人の誠(真心)の度合い、真心のこめ方によって、素晴らしくもつまらなくもなるのです。そこに人が芸術することの面白さがあり、芸術することの意義もあるのです。
 芸術は自由であり、自由に芸術することにおいて人は平等なのです。
 それぞれの個性が織りなすこの社会において、自分はいかに芸術するかということが問われるのであり、その芸術によって他の人によくも悪くも評価されることになります。
 人はみな他の人によって「一廉(ひとかど)の人物」と評価され、承認されることを求める存在です。ヘーゲル(1770〜1831)は、人は他人の承認を求めるためには命をかけて闘う存在であると言っています。

2.「人生は芸術である」における「平等」


(1)「芸術する」ことにおける平等
 すべての人は芸術することにおいて平等です。自己表現するときにおいて人はすべて平等です。人はその平等を生かさなければなりません。そうでなければ人生は楽しいものになりません。
 その人の持ち味であるその人独特の個性を十分に発揮して芸術する、それによって人生を楽しむことにおいてすべての人は平等です。 
 個性は誰もが持っているだけでなく、誰の個性も独自のもので素晴らしいものなのです。人は個性を持つが故に尊いのであり、さまざまな独特な個性が複雑に絡まって表現されるからこそ、人間社会は多様性に富んだ尽きせぬ妙味をもった姿を現すのです。そしてさらなる人々の芸術の場を提供してくれるのです。
 善悪にかかわらず、人の表現にはその人の個性がにじみ出るものですが、その個性の現れ方は、その表現にこめられた人の誠の度合いに応じて、深くも浅くもなるものです。真心をこめればこめるほど、その人独特の個性が顕著に現れてくるのです。ですから、個性を表現してやろうというような我(が)があると、個性はかえって現せないことになってしまいます。
 自分が他人と違った個性を授かっているということは「芸術せよ」という神のみこころなのです。私たちはそのことに心を致さなければなりません。
 視点を変えますと、他の人の芸術を相互に見るとき、それぞれの人独特の個性が十分に発揮された芸術となっているかどうかを相互に鑑賞し、評価することにおいてすべての人は平等です。それぞれの人がお互いに相手の人格を承認し合い、お互いの芸術を評価し合うことが人が平等であることの基本です。
 他人にへつらった芸術ではいけません。他人を見下した芸術もいけません。そのような芸術は芸術としてレベルの低いものですから、他人から一人前の人物、「一廉(ひとかど)の人物」として承認してもらうことはできません。


(2)お互いの芸術の相互承認と平等
 お互いに自立した自由な立場においてお互いの芸術を承認し、承認されることによって、はじめて人は自分の芸術に、そして自分自身に自信と誇りを持つことができ、もっと素晴らしい芸術をしよう、もっと素晴らしい人間になろうという意欲が湧いてくるのです。その積み重ねによって、人はグレードアップし、進歩発展していくのです。
 そのような人間の本質、在り方において、すべての人は平等な存在です。


(3)「幸福・不幸」における平等
 常に神業(かんわざ:自然的および人工的、すべての現象)を肯定して、それを芸術の素材として積極的に芸術する、自己表現していくのです。神業(かんわざ)を「イヤだなあ」と否定的に捉えて自己表現に消極的になるような生活をしていては楽しくありません。
 常に「yes, but……」と神業(かんわざ)をまず肯定する、しかし受動的なままでいるのではなく、その神業(かんわざ)を素材として積極的に芸術していこうと意欲する能動的な人生の在り方が大切です。否定や受動だけでは、素晴らしいものは生まれてきません。
 自己表現の有無、程度によって、幸福になったり、不幸になったりすることにおいても、すべての人は平等です。
 「となりの芝生は青い」と他人を羨(うらや)むばかりでは、いつも不平不満にとりつかれ、自己表現がおろそかになり、幸せにはなれないものです。「置かれた場所で花を咲かせなさい」と言われた方がいましたが、そういう心構え、心意気が大切です。


(4)「目上、目下」
 「目上」とか「目下」という言葉があります。かつては日常生活でもそれほど違和感もなく使われていましたが、身分制度を連想させるニュアンスをぬぐいきれません。
 「目上、目下」は「目線の上下」という人間の身体感覚に基づいた絶妙な表現ですが、現在では身分という封建的なイメージがしみついた語感が強く、その意味でこの言葉の「賞味期限」はすでに切れているように思われます。
 それでも、職場であるとか、家庭内、あるいは人とのお付き合いにおいて、いまでも「目上、目下」を意識せざるを得ない場面とか、改めなければと思わざるを得ないような場面も少なくないようにみえます。
 「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)、「パワハラ」(パワー・ハラスメント)、「モラハラ」(モラル・ハラスメント)などの背景には「目上、目下」という意識が見え隠れしているように感じます。
 「目上、目下」は社会生活のごく限られた範囲で成り立つだけで、全体としては、すべて平等なのだという自覚が大切でしょう。

3.「法の下の平等」と「男性には男性の、女性には女性の道がある」


 人は法の下において平等です。
 国の法律はすべての国民に等しく、公正、公平に適用されます。「法の下の平等」といわれるものです。
 二代教祖が「PL処世訓」21カ条を「みおしえ」により神授かられたのは1947年(昭和22年)9月29日でした。男女平等をはじめとする「法の下の平等」を国民に保障した日本国憲法が公布されたのは前年(昭和21年)11月3日、施行されたのはこの年(昭和22年)の5月3日だったのです。
 戦前は男女を差別した法律が少なくありませんでした。たとえば、結婚している女性は夫の許可がないとできないことがいろいろありましたし(「妻の無能力」といったそうです)、結婚している女性にだけ適用された「姦通罪」がありました。また、女性には参政権が認められていませんでした。
 男女平等は敗戦直後の日本にとって最も大切な問題の一つでしたが、わが意を得た二代教祖は男女平等について力を込めた解説をいろいろされています。「時代の要請」に二代教祖は見事に対応しておられたのです。
 そのうえで、なお、「男性には男性の、女性には女性の道がある」(PL処世訓第13条)とも二代教祖は教えています。
 「人生は芸術である」からには、男性と女性の自己表現には、平等な人間として共通したところがあるのは当然ですが、男性の自己表現と女性の自己表現にはおのずと違いがあります。
 最近のフェミニストの方々は「それは男女差別につながる、男女平等に反する、けしからぬことだ」といわれるかもしれません。
 しかし、それは違うのです。「差別」と「区別」とは違います。人としての芸術、自己表現をグレードアップしていこうとするならば、自分が男性であること、女性であることをしっかりと自覚して、そのことをも素材とし、加味した芸術、自己表現をする方がよほど自然であることは明らかです。
 第9条「人は平等である」は、第13条「男性には男性の、女性には女性の道がある」と対応しています。矛盾するものではありません。そのことについては第13条で述べたいと思います。


4.機会の平等と結果の平等(格差社会の問題)


(1)自由と平等
 自由と平等とは必ずしも両立しない面があります。経済的に強い立場にある者が弱い立場の者と自由に競争すれば、強い者が弱い者をいじめたり、仕事ができないようにしてしまうかもしれません。そのようなことのないようにするには、自由をある程度制限するシステムを国がつくることになるのです。平等を実現するには自由を制限しなければならない場合もあるのです。
 そのような視点から、平等には「機会の平等」と「結果の平等」があるといわれます。
 「機会の平等」だけではどうにもならない、とくに格差社会ではそもそも「機会の平等」は「絵に描いた餅」にすぎないので、「機会の平等」を政策的に実現させることがまず大切になってきますし、さらに「結果の平等」を積極的に実現させる法律(「アファーマティブ・アクション」)も必要になってくるのです。


(2)格差社会と平等
 人には生まれながらに貧富の差があったり、社会的、経済的にさまざまな格差があるのが現実ですから、「生まれながらにしてあの人はお金持ちの息子であり、自分は貧乏な生まれです。人生の出発点において、そもそも人間は平等ではありません。世の中は不平等です」と考える人も多いかと思います。とくに最近は経済のグローバル化の拡大に伴って、極端な「格差社会」をなんとかしなければいけないという世界的な風潮になってきています。
 しかし、「道」のうえから言えば、この世の中はこのままで平等なのです(個々人の現在の状況は、先祖を含め当人の過去の心意・行動の総決算として現れています)。世の中を一律一体にすることが平等なのではなく、種々さまざまな状態に置かれているそのままで平等なのです。どのような状態に置かれているとしても、誰もが、その立ち位置から最善の自己表現をし、芸術することにより幸福になれるので、その意味ですべての人は平等です。人生における目標は「楽しいこと」であり、「幸福になること」なのです。
 貧乏な人でもお金持ちになれるチャンスがあり、お金持ちでも貧乏になってしまうリスクがある社会は、一応、公正(フェア)で、平等といえるのですが、現在、世界的に問題となってきているのは「貧富の差」が極端になってきており、それが固定化してきていることです。チャンスの平等、リスクの平等それ自体が失われてしまった社会は健全ではありえません。
 政治の問題として、度を越した格差は、社会福祉政策、不正規と正規の社員の賃金の格差是正、アファーマティブ・アクションなどによって解消させていくようにしなければなりません。


5.「ゼロに立つ」


 「道」のうえから言って、この世の中はこのままで平等である、少なくとも平等の可能性があるということは、人は常にゼロに立たされており、一瞬一瞬をいかに芸術していくかによって、一人前の人物、「一廉(ひとかど)の人物」として承認されるかどうか決定されることになるのです。現在このままの姿が平等であると同時に、次の芸術に対してはすべての人がゼロの立場にあり、ゼロとして平等の位置に立っているのです。
 ゼロとは全く無いという意味とともに、光の3原色(赤・青・緑)を混ぜると白色になるようにすべてを含んでいる意味でもあります。
 ですから、「白紙の心境で物事に臨む」ということは、「全くなにも無い状態で臨む」ことであるのと同時に、「すべてを含んでいる心境」でもあり、「その場、その場、その都度、その都度にふさわしい心境を顕(あらわ)し出す」ということでもあるのです。

6.平等と「ノブレス・オブリージュ」


 人は平等なのですから、機能的な目的のためのものにすぎない職場における自分の地位、椅子を自分の特権や身分であるかのように錯覚して、高圧的に人に接するようなことがあってはなりません。
 「椅子に心境あり」という言葉があります。ただその椅子に座っていればなんとかなるというものではありません。それなりの椅子にある人にはそれなりの心ばえ、自覚、心境が必要とされるのです。椅子なりの努力、献身が必要なのは当然のことです。そして、そのような心境を目指すことによって、その人はグレード・アップすることができるのです。なお、椅子に座ることによって、その椅子にふさわしい心境ができるという意味で使われることもありますが、不都合なご都合主義の人事の言い訳に使われることが多いようにも思われます。この点については、第4条「表現せざれば悩(なやみ)がある」(Ⅲピーターの法則 2 椅子に心境あり)をご参照ください。
 西欧社会では「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる責任)の大切さが強調されます。高い地位にある人は一般の人よりも重い責任を負っていることを常に自覚していなければいけないという言葉です。
 そのような自覚に基づいて普通の人とは違った危険な役割に率先して挑戦することが、高貴な地位に在る条件だと考えられているのです。
 ある意味で実質的な平等を目的としているとも考えられます。
 第1次世界大戦(1914〜1918)のとき、イギリスの貴族の子弟は率先して危険な戦場へ参加し、多くの戦死者を出しました。そのため、戦後のイギリスでは優秀な世代が失われた、それがイギリス衰退の原因の一つにもなったといわれるのです。

7.人生を楽しむことの平等


 「人は平等である」といっても、人にはそれぞれの立ち位置、立場があります。人はそれぞれの立場に立って、他の人を気にかけ過ぎることなく、今日から明日へとひたむきに努力を積み重ねていくことによって、他には代え難いその人独特の楽しい人生が展(ひら)けてくるところにおいて、人は平等なのです。
 〝人生は芸術である、楽しかるべきである、楽しくないのは何かが間違っているのである。その間違いを教えてくれるのがPLの教えです〟と二代教祖は言われます。人は目標を持ち大いに芸術し、楽しい人生を送る可能性を持っていることにおいて人は平等なのです。