人は生れた時から感情を知性とともに神様から頂いています。
感性をみがいていくうちに次第に豊かな感情、鋭敏で繊細な感情を身につけることができるのです。人によってそれぞれの感情があり、その感情を上手に使って自他祝福のたのしいあり方をしていくのが人の生きる道でもあります。
物事に対して「感動する」、よいものをみて「いいなあ」と思う、「美しい」と思うのも感情ですし、又人や物事に対し、いやなおもいを持つ、「怒る」、「悲しむ」、それも感情です。人は感情と共にあり、その人の動きの中にその人のおもい、感情が必ず流れているのです。感情のほどよい表現はその人にとって人生にうるおいやたのしさ、更に生甲斐を感じさせることになるものです。ほどよい感情の表われはまわりの人にとっても美しく感じのよいものです。
他の人の行ないや言葉を目や耳で受け取りますと、心の中にそれが「好ましい」とか「いやだなあ」という評価、つまり感情がわきます。
そして、その評価、感情を表情や言葉や行動で表現することになります。それが「喜び」であり「怒り」であり「悲しみ」です。感情表現は言葉だけでなく顔の表情に表われますし、血圧や脈拍が上がったりもします。悲しいときには涙が出てきます。
感情に走るとみしらせの原因になります。「走る」とは度を過ごすことです。
なぜ、人は感情に走るのでしょうか。それは、物質欲とか自尊心、見栄、肉親愛などの欲にとらわ
れ、損だとか得だとかにつきすぎるからです。
「あなたには強情ばる癖がある」「あなたは心配性で憂え心がある」と指摘されて、どうしたらよかとなやんでいる方がいるかもしれません。
癖は習慣ずけられたものです。
癖は度をすごした状態が習慣となっていることをいいます。
癖は我であるともいわれます。
“誠なる心を誠にせぬものは己が癖ある我とぞこそ知れ”
これは初代さまのお歌ですが、二代さまは初代さまを
“強情を善用された方である”とおっしゃいました。
強情を素材としてみごとな芸術をされた方が初代さまです。
ご自分が強情であることを自覚され、それを適切に制御(コントロール)されておられたのですから、それは「理性の情」というべきでしょう。
自分にはこういう癖があると自覚することがまず大切です。
度をすごさぬようにするにはどうしたらよいかですが、何事もほどほどにと申します。ちょっと怒った位ならと、それをくりかえしていますと、いつか度をすごすことになるのです。相転移を起こすのです。持続することが問題です。自分が正しいと思ったことでも、それに反対する人をいやがり“排斥する”とか“はらたておこる”といった感情にとらわれ、それを持続していますと、それが癖になり神さまからみしらせを頂くことになります。
「一切は神業である」ということを自覚し、肯定することです。神業は神さまのあらわれで、それに対しては人は無意見、無条件に肯定するのみです。そしてそれをどう芸術していくかがその人の芸術手法になります。誠心誠意創意工夫するのです。それは感情をコントロールすることでもあります。
たのしい感情、自他祝福になる感情を持つためには、美しいものを見、感動することを心がける、それを癖にしてしまうことです。