「みおしえ」について | 御木白日のブログ

御木白日のブログ

学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 

1.同じ一生を過すなら、世のため人のために世に類例のない生き方をしたいと私はいつ頃からか思うようになっていました。そうなれるにはどうしたらよいのかを、二代さまに伺いますと、「わしの言う通りにしていたらなれるよ」と簡単におっしゃったのです。それならば二代さまのおっしゃる通りにしようと思い、弟子として精進しようと心を決めました。
   ある夏の日、二代さまの釣のお供をして浜名湖に行きました。その頃二代さまから頂いた教師バッチをいつも胸につけることが習慣になっていた私は、釣のお供でも胸につけて出かけましたが4、5日して帰宅し、いつものように神前でお誓いして、ふと胸をみますと、バッチがないのです。顔から血の気がひくのを感じました。大変なことになったと思いました。あわてて自分の通ったところをあちこち探しましたが、全く見つからないのです。神様から「お前はダメだ」といわれたような気持になり、ひたすら探すと同時に朝早く起き献身する毎日でした。
   1週間位たったと思いますが、朝晩真剣に遂断らせて頂いていた神前で、朝、いつものように遂断って立ちあがりますと、足もとにバッチがあったのです。自分の目を疑いながら、手に取ってみますと、私のバッチでした。毎日神前はきれいに掃除していますので、そこにバッチがあるなどということはあり得ないのです。本当に不思議なことでした。
   私は思わず二代さまのところへ走って行き「バッチがありました。」と申しあげました。考えてみますとバッチを紛失したことは、とても二代さまにはお知らせすることが出来ず、迷っていたのです。でもバッチがあったことがあまりにうれしくてそんなことは忘れて、思わず申しあげていたのです。その時二代さまは「ああそうか」と一言おっしゃっただけでした。
   二代さまはすでに気付いておられたのだと思います。
   神様は私に反省をうながすためにこのような神業を私にみせて下さったのだと、心から感謝いたしました。
   それ以来私は「類例のない生き方をしたい」など何とえらそうな思いをしていたのだろうとふかく反省し「ただただ二代さまのお役にたたせて頂けばいい」と思うようになりました。
   これが最初の試練でした。
2.二代さまのお役に立つ人になるには、みおしえの出来る人にならねばならないと本気で思い、そのためには必死で献身させて頂こうと決意をあらたにいたしました。
   二代さまにそのことを申しあげると、「よし、わしの言う通りにしたらよい」とまた言われたのです。
   「わしはよく短歌を通して教えの話をするので短歌がわからぬとわしの話もわからないよ」との二代さまのお言葉に、それならば短歌を勉強しようと思い、そのためには「どうしたらよいのか」二代さまに伺いますと、「すきな短歌を百首暗記をするとよい、暗記しては作歌し、作歌をしては暗記するというようにするとよい、百首暗記すると、大体短歌というものがある程度わかってくる」と二代さまはおっしゃったのです。どうせやるなら少しでも早くわかるようになりたい、という思いから「それならば百首で分るなら二百首だったらもっと早くわかるようになるのではないか」と私の浅知恵で勉強をはじめました。短歌は好きで小学校の頃から親しんでいたこともあり、よろこんではじめたのです。
   作歌をしては二代さまにみて頂き、又暗記するという事で百首暗記する頃には、「短歌とはこういうものか」というある線がたしかにみえてきました。
   私が作歌をする時間はいつも夜半でした。
   二代さまのお仕事が終るのが夜半12時すぎで、それからが自分の時間で作歌をしたり暗記したりと寝るのは2時すぎというめまぐるしい時間をすごしていました。
   その頃は平均睡眠時間3~4時間位でしたがそれでも緊張した生活のためか楽しい日々でした。
   冬のある日、夜になると暖房が全部消えてしまうので火鉢をそばにたくさん着込んで作歌をしていて、いつの間にか机にうつ伏して寝入ってしまいました。朝方目がさめて左ひじがあついので、右手でふとさわるとひじのところの服がすっぽりぬけおち皮膚をやけどしてしまったこともありました。
   当時、幹部会議の最後に必ず歌会があり、20才そこそこの私もその幹部会議に入れて頂き、歌会にも短歌を出していました。その頃、「短歌芸術」の「第一本欄」、「第二本欄」の選は窪田空穂先生が自からして下さっていました。私は「第二本欄」でしたので窪田空穂先生の御指導を頂くことができました。
3.二代さまは常に“世界平和の為の一切である”に徹しておられ、単なる自分のたのしみ事を楽しむということはありませんでした。二代さまの教えを自分のものにしたいと必死になっていた私はいつの間にか自分のすべてが“世の為人の為、教えの為の一切である”でなければならないと深く信念するようになりました。それは今も変りません。

   “献げてを献げてをなほし献げてぞ生くる真道の限りあらなく”
  
   当時の私のうたです。空穂先生から二重丸を頂き「これはすごい歌です」といわれたときの感激を今でも忘れることができません。
   二代さまは“世界平和の為”によく、“よのためひとのため”とふりがな(ルビ)をおつけになっていました。人は神によって生かされ、かつ、さながらに自己表現して生きているのですから、二代さまは人々が「神の自己」を世の為人の為に精一杯表現し、たのしく自他祝福になるあり方を実践して、幸せの道に向えるよう祈念することに終始されたのでした。
   二代さまに指導して頂いた私は、二代さまのそのお思いといつもひとつになって進まなければと、今も心をひきしめています。
   二代さまのお仕事の手伝いの合間にも、芸術について、詩や短歌について、また「みおしえ」について、その心境についてのきびしいお話、人としての在り方や初代さまのこと、ひとのみち時代の体験、等々…それはそれはいろいろ話して下さいました。
   「人の世の来し方行く末について話をしよう」と語って下さったこともあります。お仕事は勿論のこと、そういう二代さまのお話がまたたのしく時間を忘れてしまうこともしばしばありました。
   二代さまは毎日、日訓(全教師に向けて教えのこと、ご自分の思っておられることを書いて送られたもの)を口述されましたが、昼間はお忙しいのでどうしても夜になることが多かったのです。夜半12時近くになって「日訓をお願いします」と申しあげると、「おお日訓がまだだったのか」とすぐ応じて下さったものです。
4.みおしえのできる人になるためには「我(われ)なしの心境」を把握しなければならないと何度も何度も二代さまからきびしく言われてきました。それは教えてもらってわかるというものではないことが今になってわかります。あくまで、本人が自分で体得しなければならないものですし、神によって悟らせて頂くものです。
   二代さまは次第にきびしくなり、「お前はまだ自分というものをつかまえている“自分がない”ということがなぜわからないのか」
   「百尺竿頭一歩を進めよ、百尺の竿の先まで行ってもう一歩進むと落ちてしまう、だけどそこを飛ぶのだよ、思いきって飛ぶんだよ、そしたら神が必ず手をさしのべて下さるから」
   私は二代さまから心境についていつもきびしく教えられ、また、きびしく𠮟っても頂きました。
   これらのお言葉は耳朶(じた)を打って今もはなれません。
   二代さまから度々𠮟られて、自分自身どうしてよいかわからなくなってしまったこともありました。でも何とかして「我(われ)なしの心境」を把握したいと必死でした。
   毎日毎日、二代さまが事にふれて、きびしいことをおっしゃるので、だんだんと二代さまの顔をまともに見るのもつらく見たくないとまで思うようになっていました。
   ある朝、いつものように支度をすませて部屋を出ようとドアをあけた瞬間、「ああ、そうだったのか、白日のための白日はなかったのだ」と、ハッと気付かせて頂いたのでした。
   二代さまのおっしゃる“我(われ)なし”(“自分というものはない”)ということをわからせて頂いた瞬間でした。それは突然やってきたのです。
   それまでは、頭ではわかってるつもりでも、頭の中はいつもいろいろな思いで一杯だったのです。「そうだったのか」と神から教えて頂いたその瞬間、急に肩の荷が下りたように心身が軽くなって、心から楽しくなりました。
   ふしぎなことに、そのときから二代さまは私にきびしいことを何も言われなくなりました。
   しばらくして、二代さまから、「お前も大分わかってきたようだな」とおっしゃっていただきました。二代さまにはすでにわかっておられたのです。その時二代さまの「にこっ」とされたお顔を久しぶりに拝見したように思いました。それは昭和36年12月のはじめでした。
   12月31日は我が家の大掃除で、鉢巻をしめて朝から大忙しでした。その最中、二代さまから「白日ちょっと来なさい」、「このみおしえをしなさい」と10数枚の「みおしえ願い」を渡されたのです。
   「お前の部屋でやってきなさい」と言われ、私は「みおしえ願い」を受取ってそのまま部屋に行き、「みおしえ」をさせて頂きました。その「みおしえ」を二代さまにおみせしますと、「うん、できている、よし」とおっしゃって、「にこっ」と微笑まれました。忘れることのできない思い出です。いまでも、自筆のその最初の「みおしえ」を大切にもっています。
   その時の私はというと、何か大変なことをしたという気持ではなく、普通にものごとをすましたという気持でした。
5.二代さまのもとでみおしえをさせて頂くようになり、いろいろ体験させて頂きました。
(1)二代さまを信頼しておられた方に日本の解剖学の権威のM先生というドクターがいらっしゃいました。M先生はご自分が解剖された人の結果についてくわしく書いて来られ、それにつき二代さまから「みおしえ」を頂いておられました。
     私もよくその場に居合わせてその様子を見せて頂いていました。
     二代さまは「この人はこういう癖があった」等亡くなられた原因を指摘し、「みおしえ」として、くわしく説明しておられました。
     M先生はその都度得心しておられました。
     M先生は担当医の所見と解剖後の病巣のあり方にくい違いがある場合なども含めて、患者さんの死に至った心因について、二代さまに図式による説明も含めた「願い書」をお見せしながら、みおしえを頂いておりました。
     お側にいた私は、みおしえと医学との関係、みおしえの奥深さを期せずして教えていただいたのでした。他に変えがたい貴重な体験となりました。
(2)私の夢の中に初代さまがはじめて出てこられたのもこの頃でした。日の丸のついた羽織はかまに日の丸のついた扇子を持った初代さまがあらわれ、かしこまった私を指さして、「お前は孫娘の白日だな、お前は二代のいうことだけをきいていたらよいのじゃ、それでよいのじゃ」といって立去ろうとされたので、「先代さま、今すぐ二代さまが帰って来られますのでお待ち下さい」と私は申し上げながら追いかけようとしますと、「今、二代のいうことだけをきいておればよい、といったではないか。私の後をついて来るな」と大声で言って立去られました。そこで目がさめました。夢で見た初代さまの姿のようすと言葉を二代さまに申し上げると、「その通りだよ」と教えて下さいました。
     いま思いますと、初代さまが「二代の・・・」と「二代」といわれ、私も「二代さま・・・」といっていたのは不思議な気が致します。当時、「二代」とか「二代さま」とかいうことはなかったからです。
6.「みおしえ」をさせて頂くためには、先ず「願い用紙」が大切です。「願い用紙」に願い人の続柄をくわしく記してもらうこと、また、初婚、再婚などについてもくわしく記してもらうことが必要です。
   みしらせの状態によって、このようなことが大切なことになってくるのです。
   通常のみしらせではなく、ある種、特別のみしらせの場合には、ご両親や過去の人との関係が出てくる場合がありますので、「願い用紙」にくわしく記してもらう必要があるのです。
7.「師匠の握拳(にぎりこぶし)」(「教師の握拳」)
   お釈迦さま(ブッダ)は悟るためには、ただがむしゃらに難行苦行してもだめで、正しい方法を知って、その方法を実践する以外にないことを知りました。そして、自からそれを実践して悟られたのです。さらに、悟りを求めて集まってきた弟子たちにブッダは正しい方法を指導され、悟らせたそうです。
   みおしえの境地は悟りの境地でもありますから、「みおしえ」ができるようになるためにも、それと同じことが言えます。ふさわしい師からふさわしい指導を受けることなのです。
   また、ブッダには「師匠の握拳(にぎりこぶし)」という言葉があります。
   「完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような師匠の握拳は存在しない。なにも握り隠すことなく、すべてを説き明している」という意味だそうです。
   二代さまは「わからないことを何でもわしに聞きなさい。それを怠ると“賢に会って問わざれば、去ってのちに悔ゆ”になる。わしは先代にすべて問い、きいてきたので悔いはない」と言っておられました。
   私は“賢に会って問わざれば、去ってのちに悔ゆ”ことばかりです。どうして、もっともっと二代さまにおききしておかなかったのかと悔ゆることばかりなのです。
   せめて私にできることは「みおしえ」のできる心境を伝えていくため、「みおしえ」ができるようになりたいと心から願っている方々にすこしでも役立つように、私のつたない体験を明らかにしておくことです。それが二代さまのよろこばれるところでもあると信じております。