<42/続100>要害山城(山梨県) | カメラ片手に日本百名城巡りのブログ

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2024.05.25

 韮崎民俗資料館から甲府へ向かう。

 甲府駅近くの有料駐車場に車を停めて、藤村記念館へ向かう。ここは、明治時代の山梨県令(今の知事)藤村紫朗が教育に注力したことを記念し、当時の小学校を移築保存している施設とのこと。

 藤村記念館で続100名城のスタンを押し、係員から要害山城についての情報とパンフレットをいただく。

 躑躅ヶ崎館(現武田神社)の脇を抜け、車で走ることおよそ10分。要害山城の登山口に到着。道の脇に駐車場と簡易トイレが準備されている。

 車を停め、看板に沿って歩き始める。

 案内用の看板と石碑が出迎えてくれる。

 石碑横の道が登山道らしい。早速登り始める。この時午前10:50。スロープで折れ曲がった登山道が続く。 

 突然、登山道を遮る倒木が出現。大きな1本の倒木が登山道2箇所を遮る。木を跨げは通行可能であるが、倒れたのが新しいのか、至る所から樹液が吹き出している。これがズボンに着き、帰宅後洗っても落ちない。倒木は色々な意味で大変だ。

 登り始めて20分ほど、竪堀跡の看板を見つける。規約さが生い茂り正直「これかなぁ?」ぐらいにしかわからない。当時は、竪堀ももっと深く、堅固な城であったことが想像できる。

 さらに進むと、不動曲輪に出る。名前の由来は江戸時代ここに“武田不動尊”を祀ったことに因むとのこと。

 不動曲輪を後にしてしばらく歩くと門跡に出る。実はこの城には、いくつもの門跡があるのだが、不動曲輪のすぐ上にある門は重要な場所に位置していたためか、石垣で守りを固めていた。

 登り始めて45分ほど(僕は足が遅いし、所々撮影タイムがあるため普通の人より遅い)で主郭(本丸)に出る。ここには「武田信玄誕生の地」の石碑がある。石碑を揮毫したのは、日本海海戦の司令官東郷平八郎とのこと。

 さて、なぜ武田晴信(信玄)はここで生まれたのか?(麓の積翠寺という説もあり) 当時、父親の武田信虎は駿河の今川氏に攻められており、大井夫人等は躑躅ヶ崎館の詰め城であるここ要害山城に避難していた。その最中、晴信が生まれたということになっている。政務をとる館と、背後にある戦闘のための詰め城、この組み合わせは戦国時代意外と多い。朝倉一乗谷城も麓の館と山頂の山城、三重県多気町にある北畠氏城館も山上に城を構えている。

 さて、話は要害山城に戻る。主郭部はかなり広く、当時の庭園の庭石などが残されている。 さらに主郭から搦手口に向かうと、大きな堀切を見ることができる。16世紀初頭としてはかなり大掛かりな城となっていたことがわかる。

 主郭部分を見学した後下山。足場があまり良くないため下りもそれなりの時間がかかる。40分ほどかけて駐車場に戻ってきた。

 山梨旅行2日間のうち1日目の午後1時前には目的の山梨県の続100名城2城の都城を終了。ここからは武田氏の史跡めぐり。まず最初に、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言いながら滅びた快川和尚で有名な恵林寺に向かう。

つづく