<29/続100> 福知山城(京都府)と今回もおまけ | カメラ片手に日本百名城巡りのブログ

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2024.03.02

 今回は京都に用(それはこの次のブログで)があり、1泊2日京都の旅。

 1日目は続100名城めぐり京都府編。京都部の続100名城は福知山市の福知山城1つのみ。近くに黒井城(兵庫県)もあり一緒にまわろうとしたが、当日の天気予報は雪のち晴れ。黒井城は山城で足を滑らせる危険性があったため、福知山城のみ行くことにした。

 名古屋を朝早く出発。新幹線で京都駅に向かい、特急「きのさき1号」に乗り換えて福知山に到着したのは午前9時前。雪降ってる。駅から城までは徒歩20分程とのことだったが、今回は(も?)タクシー移動。城前の駐車場でタクシーを降り、まず撮影。

 写真では判り辛いがかなりの雪。撮影後ゆっくり登城を始める。さすが福知山市の平山城。駐車場から天守までの歩道も全て舗装されており手すりなどもあり登りやすい。

 天守下にたどり着いた頃にはすっかり雪も止み、青空も見える。梅の枝には雪が積もっている。青、白、ピンクのコントラストが綺麗だ。

 ここ福知山城を現在に近い形で築城したのは、あの明智光秀と言われている。地元での光秀の評判は、城下町を整備するなど名君として慕われているという。さらに大河ドラマでも名前を挙げたようだ。今見ることができる天守などは、もちろん戦後建てられた鉄筋コンクリート製だが、光秀時代の痕跡を見ることができるのは主に石垣。

 神社の灯籠や石碑等を徴用し積んだ“転用石”を多く用いた「野面積み」の石垣である。光秀は築城を急いでいたのだろうか?さらに、他の所に目をやると、後世石垣を増築した跡も見ることができる。

真ん中に、斜めに区切られた線が見えるが、拡張した跡とのことだ。

 さらに、その他の石垣の特徴としては、角に粗く四角に削った石を積む工法が用いられている。これはのちに確立する“算木積み”(細長い石を交互に積む方法)への過渡期の工法とのことだ。建物に目が行きがちだが、こうして石垣をゆっくり観るのも楽しい。

 天守の中は歴史資料館になっており、光秀の丹波平定の足跡についてパネルで紹介されているほか、35,000石で明治まで続いた朽木氏歴代藩主の足跡、遺品などが展示されていた。さらに将棋の竜王戦の会場となったことがあり、部屋が保存されていた。

 さらに、最上階に登ると福知山を一望することができ、百人一首や鬼退治で有名な大江山などを一望することができる。

 見学が終わった後は、時間もあったので市内を歩きながら駅まで帰る。

 でここからがおまけ、実は近く(でも特急で50分ぐらい)に一度は訪れてみたい城があったので京都市内に戻る前に寄ることとした。

 その城とは園部市にある「園部城」。この城、100名城にも続100名城にも入ってない城ではあるが、日本で最後に建てられた城ということになっている。陣屋しかなかった園部藩では幕府に対して「城を建てたい」と願いでていたが、その後大政奉還を迎えうやむやに。その後、明治新政府に城の建設を願い出た結果やっとOKをもらい門と櫓を作ったところで廃藩置県となってしまったというもの。門と櫓は当時のものが残っており大変興味深い。

 福知山から園部まで山陰本線で戻り、バスで「園部高校前」前まで行く。現在園部城の敷地は「県立園部高等学校・附属中学校」となっている。

 バス停を降りて道を渡ると櫓門と櫓がが見える。この櫓門と櫓の完成は明治2年。そのわずか2年後に廃藩置県となってしまった、ある意味“悲劇の城”である。

 さらに歴史ファンの一部からは「この櫓門、小さすぎて大砲が発達した幕末期では役に立たないのではないか?」との声もある。自分は、小さいながらも「城をつくりたい」と思った城主の心意気を評価したいと思う。

 帰りはあいにくバスがなかったため、園部駅まで25分かけて歩き、電車に乗って京都市内に戻った。まだ、時間もあったので枝垂れ梅の名所「城南宮」で梅を見た後、夕食を食べホテルに入った。

翌日は、最初に書いた京都での“用”である西本願寺の書院及び飛雲閣の見学となる。