Vol.77 『下町のこふねさん』 | 猫又小判日記

猫又小判日記

石井綾乃が綴るブログエッセイ。精力的に短歌を詠む。第一歌集「風招ぎ」、次いで第二歌集「猛禽譚」を上梓した。また「文学さろん 美し言の葉」を主宰。筋金入りの猫好きである。最近はプール通いで健康維持を図る。そんなつれづれを、日々思うままに書いていきたい。

Vol.77  『下町のこふねさん』

 

こふねさんは、ハキハキものを言う、気風のいい江戸っ子です。

 

旦那さんは早くにはやり病でいのちを落とし、ひとつぶ種の娘のかやのさんを、

女手ひとつで懸命に育てあげました。

 

かやのさんはお嫁にいきましたが、高齢のこふねさんを心配して、

近所に住まいを構えていることもあり、毎日かおを出していました。

こふねさんも、かやのさんとお喋りするのを楽しみにしており、

下町の和菓子屋さんで、お茶菓子を買うのが日課になっているのです。

 

そんなこふねさんも80の歳を数え、なんとなくいつもと違うことをしたり、言ったりすることが多くなりました。

 

相変わらず、歯に衣着せぬもの言いですが、ある日娘のかやのさんに、

「今日はお茶菓子、かやのが買ってちょうだい」

というのです。ショーケースに並んだ、色とりどりの和菓子選びが、あんなに好きだったこふねさんなのに。

「いいけど。どうかしたの?」

かやのさんは心配になってたずねました。 

でも、こふねさんは、

「なあにね。ちょっとお天道様がきつくてね。外に出る気になれないからさ」

と、かやのさんにがま口を預けました。 

 

それは何気ないことではありました。

でも、大好きだった大相撲のテレビ中継も、

見ようとしなくなりました。

 

かやのさんがこふねさんを訪ねると、

こふねさんは大相撲を見るどころか、

布団に横になっています。

「お母さん?お母さんの好きな都富士が、

優勝決定戦をやるのよ?

一緒にお相撲観ましょうよ」

と、話しかけても、

「うん、なんだか大儀でねえ」

と、布団に寝たままです。

 

やがて、こふねさんは、大好きだった役者さんの名前が思い出せなくなりました。

それどころか、

娘のかやのさんが来ても、

しばらくこの娘は誰だろう?

と、考えることが多くなりました。

 

かやのさんは、頭の中で、こふねさんの症状を、

一番恐ろしいものに導き出していました。

そして意を決して、こふねさんには散歩に行くと偽って、

脳神経外科の病院に連れて行きました。

 

こふねさんは、

「かやの?ここは病院じゃないの!

いやだよ、あたしは帰るよ」と、叫びました。

でも、かやのさんは、

「お母さん、最近健康診断受けていないでしょ?

念のためよ」

と、はぐらかしました。

 

渋々診察室に入ったこふねさんに、

医師は黙って、

ハサミ、ライター、携帯電話、コップ、時計。

これらの品物を机にならべ、

こふねさんに、

「この品物をよく覚えていてください」

というと、品物をみんな片付けてしまいました。

 

そして、くるりと回転椅子でかやのさんにま向かうと、

「さあ、さっき机の上にあったものを私に教えてください」

と言いました。

こふねさんは、一生懸命思い出そうとしましたが、ひとつも思い出せません。

「ええっと、えっと。なんだったかしら?

おかしいわねえ。今日は調子が悪いのかしら?」

 

こふねさんには別室で待つよう、医師は告げ、

かやのさんに言いました。

「間違いなく認知症です。

症状が進んだら、施設のことなども視野に入れたほうがよいのでは」

 

かやのさんは、およそ想像していたことなので動じはしませんでしたが、

やはり大きなショックを受けました。

 

そしてなんとなく、こふねさんと手をつないで帰りました。小さいころ、よくこふねさんにそうしてもらったように。

 

こふねさんは、かやのさんと、

寂しげに歩いていましたが、

つと足をとめて夕空を見上げました。

そしてかやのさんに尋ねました。

「かやの・・・あたしは呆けたのかねえ?」

 

かやのさんは、みるみる涙が溢れましたが、

小さいころのように、ぐいと腕で涙を拭くと、

「お母さん、大丈夫よ」

とだけ、やっとの思いで言いました。

 

「ごめんね、お母さん」

なぜそんな言葉が口をついたのか、

かやのさんにも分かりません。

 

「お母さん、和菓子を買って行こうか。

帰ったらいっぱいいっぱい、お喋りしよう」

 

かやのさんはそう言うと、ずいぶん細くなってしまった、

こふねさんの腕を取りました。

 

軒先の風鈴が、チリーンと涼しげに鳴りました。

かやのさんは込み上げるものを抑えて、

いつまで和菓子を買って、こふねさんとお喋りをする時間が残されているかを考えず、

ふたり仲良く、和菓子屋さんの暖簾をくぐりました。