芸能人やら議員などなどの一連の不倫騒動は他誌も刺激して、とうとう乙武さんに至っては自ら告白。
これをタダのゴシップ祭りと思えばそれまでなんですが、
ホンマにそれだけ?
と、みけマンマ、勝手に思うわけです。
"お前が深淵をのぞく時、深淵もまた等しくこちらをのぞいているのだ。"
ニーチェの有名な言葉ですが、文春の新谷学編集長は、世の人々にどんな深淵をのぞかせようとしているのか?我々がのぞいている深淵とは何なのか?
最初のベッキー騒動の時は、そんなに感じなかったのですが、ここまで来て、何か強い意志のようなものを感じます。
他人の極めて個人的な内容を世間に晒し、人々はこぞってゴシップ記事を買い漁る。
先日たまたま売店で本を立ち読みしてたら、隣に家族連れが来て、お父さんが
「文春、どこ行っても手に入らないんだよねー。ここも売り切れじゃん」
と奥さんに話してました。
買う人、いるんやな、と思うと同時に、人々がまるで映画館で1つのスクリーンを凝視してるような感覚を感じました。
この深淵はどこかに繋がっていて、それを見せるもの、見たがる者、見られる者。
新谷学氏は私達をどこへ連れて行こうとしているのか。
一体何を見せようとしているのか。
たまたま先日、夭折した小説家、伊藤計劃のハーモニーを見まして。
「善,っていうのは,突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。
そう,持続。家族が続くこと,幸せが続くこと,平和が続くこと。内容はなんでもいいんだ。人々が信じている何事かがこれからも続いていくようにすること,その何かを信じること,それが「善」の本質なんだ。
でも,永遠に続くものなんてない。そうだよね。
だからこそ「善」は絶えず意識され,先へ先へと枝を伸ばしていかなきゃならないんだ。善は意識して維持する必要があるんだよ。というより,意識して何事かを信頼し維持することそのものを善と呼ぶんだ。」
この一文で、私は何となく、文春が揺さぶりたい深淵が、ちらりとこっちを見た気がしました。彼らは正義の鉄槌を振り上げて意気揚々としているわけではない。群衆が群がる物の向こう側の、我々自身の深い闇。
糾弾する者、嫌悪する者、擁護する者、受け流す者。
果てしなく深い闇の中から、深淵がこちらをのぞいている。
ニーチェのこの言葉の前にはこんな一文がついています。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
お前が深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」
とりあえず、私は、今日もひたすら黙々と稽古をするのみ。
押忍