リアルタイムの生活で『思う』ことがたくさんあるので思い出す作業がなかなか進まないねこ山ミケ子でございます。
今日もリアルタイムのことで申し訳ない。
数日前、息子の隣のベッドのお年寄りが亡くなった。
普通、亡くなる直前になると大体の方が部屋移動をされるので同じ部屋で人が亡くなるという体験は今まで無かったのだが、その方は容態が急変したとかで早朝、息子が看護士さんたちの話し声で目が覚め隣のベッドの方が亡くなったのを知ったそうだ。
容態が急変・・・駆けつけた家族にそう看護士さんが説明したとか。
容態が急変・・・そうかな?
前日、私が感じたのは、・・・お隣の様子は私の亡くなった父の最期の日の様子と同じような感じだな、明日まで持つかな・・・だった。
本当はもっと早く部屋移動したかったらしいけど、移動先であるナースステーションと繋がっている部屋が混んでてベッドのやりくりがつかなかったらしい。
もちろん、プロの方たちの判断だから素人の私の感じよりも正しいのだろうけど、結局、お隣の方は誰にも看取られること無く静かに逝ったことになる。
亡くなる前の数日の様子はご家族の方より私の方が知ってる。
というか、この数年、もうすぐ逝ってしまわれるであろう方たちの様子をその家族としてでもなく、看護や介護する立場としてでもなく、ただの隣人としてたくさん見てきた。
どの方に対してもご家族や現場で看護、介護している方たちは出来うる限りの精一杯のことをしていると傍観者の私は思うのだけれど、でも、それでも「これでいいの? 戦後の復興を支え、日本の発展に身を粉にして働いたであろう人たちの最期がこれでいいの!?」という思いはどうしても拭えない。
私の父は一昨年、ホスピスで亡くなった。
ホスピスでの父の最期の様子はいずれこのブログでも詳しく書く予定だけれど、父の最期は母と私と看護士さんの見守る中でそれはそれは穏やかなものだった。
もちろん、本人はそれまでにたくさん辛く苦しい思いをしてますが、それでも、ホスピスでの看取りは家族である私たちに父は最期は眠るように穏やかだったと言わしめるものがあった。
息子のお隣のベッドの方があのホスピスで最期を向かえられたら・・・お隣の方のことを息子から聞いた私は何だか切なくて切なくて。
もっとホスピスをたくさん作ることは出来ないんだろうか?
それが無理なら終末期医療をもう一度、根本から考えてはくれないだろうか?
今の政治にそれを望むのは無理なことなのだろうか・・・。
それにしても、災難だったのは息子だ。
早朝、看護士さんたちの声で目覚めた息子は、その後、ご家族が来るまでご遺体と2人きりにされ、更に、ほんの数十センチ、カーテン一枚向こうにご遺体が寝かされているところで、で朝ごはんを食べなければならなかったらしい。
「さすがにパン、半分しか食べれなかったよぉぉ」
そりゃ、気の毒だったね~