またまた久しぶりのブログとなってしまった滝汗 

 

今週はある研究プロジェクトで、ブルワリナ(Brewarrina)というニューサウスウェールズ州北西部の内陸部の街に行っていた。

 

以前書いたように、わたしはある研究プロジェクトに携わっていて、アボリジニのコミュニティーと仕事をしている。

 

 

このプロジェクトは継続中で、今回はこの街のアボリジニの人々とワークショップをしてきた。仕事の内容についてはここであまり触れない。

 

アボリジニの人たちはオーストラリアの人口の5%程度を占めるに過ぎない。なので、都市に暮らしていると、ほとんど接点がないと思う。

 

わたしの場合はオーストラリアに来て大学院生だったときに、そもそも小遣い稼ぎ程度の認識でアボリジニの学部生のチューターを約2年間ほど引き受けたことがあった。彼女は自分に自信がなかっただけで、とっても優秀だった。現在は連邦政府の役人として先住民問題について取り組んでいて、わたしなんかよりよっぽど偉くなってしまっている。

 

けれどもその後、アボリジニの人たちとはほぼ接点はなく、正直を言うと、特に歴史、文化、人権問題については強い関心があるわけでもなかった。今でもいろいろと複雑で今でもわからないことばかりだ。

 

けれども、2年前に上司がたまたま引き受けてきた仕事が、今の研究チームのリーダーであるアボリジニの歴史を専門とする教授の仕事で、たまたまデータ分析ができる人が必要ってことでわたしが手伝うことに。これがこのプロジェクトに関わるきっかけだった。

 

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さてブルワリナに一番近い都市がダボ(Dubbo、シドニー北西392キロ)。ダボから北西約250キロの距離にある。ブルワリナにたどり着くには、ダボまで飛行機で飛んで、ダボからひたすらまっすぐ伸びる道を車で3時間走らなくてはならない。

 

 

イギリスの植民地化が始まったのは1840年代。現在の人口は約1000人ほど。しかしその6割がアボリジニの人々だ。

 

街にはアボリジニの文化遺産がいくつかある。アボリジニの8部族が石で作った魚をとらえる罠の遺跡があって観光の目玉となっている。

 

 

もうひとつ。ブルワリナにはアボリジニの人々にとって、とても悲しい歴史もある。

 

英国からの移住者による1859年の先住民大虐殺(Hospital Creek Massacre)。

 

そして街の北西部には1965年まで、アボリジニの先住民収容施設があった。かつてアボリジニの子供たちは母親や生まれ育ったコミュニティから引き離されこの地に送られた。子供たちは、白人の家の使用人として働くように仕立てられた。

 

この施設は過酷な環境であったようだ。十分な食事も与えられず、不衛生な環境の中、もちろん暴力や性暴力も当たり前だったようで、多くの人が命を落としたようだ。

 

 

今回我々を招待してくれたアボリジニのリーダーのお母さんもここに強制収容され、収容所から逃げるために自分の生まれ育ったコミュニティまで徒歩で500キロの道を歩いて帰ったそうだ。当時はアボリジニは人間扱いされておらず、馬車や車の使用は認められなかったようだ。

 

なんとこの施設は1965年まであって、そんな最近までアボリジニの人たちは人間扱いされてこなかった。ちなみにオーストラリアの白豪主義は1970年代まで続いた。オーストラリアでの人種差別関連についてはまた別の機会に書きたいと思う。

 

街の博物館(Brewarrina Aboriginal Cultural Museum)ではアボリジニの人たちの歴史をガイドさんが話してくれる(25ドル)。このブログを見て何人の人がこの街に行くかわからないが、ここは行く価値あり。

 

 

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オーストラリアのアウトバックは素晴らしい。

 

けれども、シドニーから、何百キロも離れた内陸の街に来ると、同時にその格差に愕然とする。なんだか30~40年前にタイムスリップしたようだ。たぶんオーストラリアの都市部で暮らしている日本人は目にすることがないこの国の別の一面だと思う。

 

 

ブルワリナにはアボリジニの文化遺産という観光資源がありながら、実際には観光客を受け入れるためのインフラがほとんど整備されていない。我々が滞在した街で唯一のパブの2階(オーストラリアでは歴史的にパブの上が宿泊施設となっている)ともう一軒のモーテルのみ。

 

 

宿泊するパブについたとき、その建物の荒れ放題の状態に、営業停止していると思ったくらいだポーン 携帯もほぼつながらないし、インターネット接続もかなり危うい。

 

観光客を呼び込むためにもこれは大きな課題だろう。

 

街には小さなスーパー(というよりグロースリーショップ)が1軒のみ。医者も数名しかおらず、診察まで何時間も待つと聞いた。

 

そんな小さな街にもかかわらず、この街の中の店や家には高いフェンスが張り巡らされているのも印象的。そうしないと、窓ガラスが割られるし、実際にわたしたちが滞在中も街の中の自動車整備工場で若者たちによる放火があった。消火に時間がかかったのも、消火するための水が十分になかったのだと聞いた。

 

街の中心には電気自動車の充電スタンドもあったが、見事に破壊され機能していないように見えたゲッソリ

 

このように、小さな内陸の街で、多くの人々は仕事もなく、不安や不満を抱えて生きている模様が垣間見えた。

 

 

しかしながら、これがすべてではない。

 

今回、このコミュニティーのリーダーたちの要望で、我々はこの街を訪れた。リーダーたちは熱意にあふれていて、再生エネルギーを取り入れた新しいビジネスモデルを創出して、街やコミュニティーを変えていきたいと考えている。

 

これまでのオーストラリアの資源採掘中心の歴史では、アボリジニの人々は祖先の土地から搾取され続けてきた。この過去の失敗から学んで変えていけたらと考えている。

 

 

今回の旅で出会ったこの人たちが希望の光だキラキラ

 

つい最近、オーストラリアの連邦政府はアボリジニの人々による再生エネルギープロジェクトを推進する政策を打ち出しているが、今のところオーストラリア各地で事例がない。

 

実際にプロジェクトを立ち上げるには資金面や法律面など、多大な努力や時間が必要になるだろう。

 

けれども今後も引き続き応援していけたらいいと思っている。