井伊家筆頭家老 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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京都、祇園花見小路の一角に、井伊美術館があります。
日本で唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館だそうです。

 

 

何年か前に一度こちらを訪ねたことがあります。
明智光秀関連の史料があると耳にしたからです。

 

 

彦根井伊家末裔の館長さんに見せていただいたのは、井伊家

筆頭家老・木俣守勝所有だと伝わる甲冑と書状でした。

 

 

守勝はもともと家康の家臣でしたが、事情があって家を飛び出し、

信長のもとに行ったそうです。信長は守勝を50石でもって明智光秀の

配下に付けました。
守勝は光秀の元で連戦に参加し、石山本願寺攻めなどで武功を

あげて活躍が目覚ましかったので、家康が信長に頼み込んで

自分の元に返してもらうことになりました。

その時に餞別として、光秀は書状を添えた甲冑を守勝に与えました。
甲冑と書状は現在井伊美術館に収められています。

 

 

その後家康家臣として京都詰めになった守勝は、天正10年、

伊賀越えの際に家康の警護に当たったそうです。

本能寺の変直後、家康は武田氏旧臣を取り込み井伊直正の

配下としました。守勝はその統率にあたり、これがきっかけで

徳川家臣から井伊家臣となりました。

 

出典を知らないので本当かどうかわかりませんが、守勝には

ある逸話があります。

 

関ヶ原合戦の後、井伊直政は佐和山18万石を与えられました。

直政は家臣木俣守勝の働きをねぎらおうと茶席に招き、褒美として

好きな茶器を選ぶようにと告げました。
直政は、武辺者の守勝のことをだからきっと雑器を選ぶだろうと

タカをくくっていましたが、なんと守勝が選んだのは家康から

下賜された名物の呂宋壺・銘『村雨』でした。
守勝は光秀の下にいた間に、審美眼が鍛えられていたのでした。

 

 

好きなものを選べてと言ってしまった手前、直政は『村雨』を守勝に

与えましたが、その後直政の未練のせいか、

「茶席でこの壺の蓋を開けると雨が降る」と囁かれるようになりました。

 

 

 

 

2017.1.16 付記

守勝が井伊家臣になったことを書き忘れたので

追記しました。

 

 

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