本能寺の変 諸説を考える (2) | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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「野望説」と並んでいまだに動機として信じる人が多いのが、

「怨恨説」です。

信長が光秀に行った仕打ちを恨み、謀反に走ったというものです。
その仕打ちというものは今ではほぼすべて否定されているのですが、

フィクションの世界ではいまだにこの説が幅をきかせています。

 

 

怨恨説のいくつかを挙げてみます。

 

 

武田氏討伐に功労のあった家康を安土に招き、その接待役を

命じられた光秀が、家康に振る舞う料理を腐らせてしまい

信長の怒りを買った。
…これは『川角太閤記』という秀吉の息のかかった書物に出てくる

話で、信じるに値しません。光秀が贅を尽くした振る舞いをしており、

腐った食べ物を出す可能性などなかったことは、

こちらの記事で検証しました。
高柳光壽氏も、この話のことを「光秀の叛逆が怨恨にあったと

するための伏線に過ぎない」として退けています。

 

 

『川角太閤記』には、天正10年6月2日付で、光秀が小早川隆景に

送った書状というものが載せられています。

そこには、光秀は信長に対し長年憤りを抱いていたとあります。

この書状は、これを運んで来た使者が小早川隆景の陣と間違えて

秀吉側の陣に迷い込んだところを捕縛され、秀吉方に渡ったと

されるものです。いかにも出来過ぎた作り話で信憑性は低く、

現在では否定されている話です。

 

 

光秀が丹波・八上城を攻めた際に、母を人質として八上城に送り、

そのかわりに城主の波多野兄弟を誘い出した。兄弟を安土に送り

信長の安堵を得ようとしたが、信長は兄弟を張り付けにしたため、

光秀の母は八上で張り付けにされた。
…この説は、後世に出た資料的価値の低い『総見記』が出所で、

『総見記』の影響を受けて書かれた『柏崎物語』という

俗本などにも書かれています。
光秀は八上城を兵粮攻めにし落城は間近だったので、わざわざ母を

人質に出す必要はありません。
秀吉が中国を攻略した時、三木城では城主の別所長治一族が、

備中・高松城でもやはり城主の清水宗治が切腹し、そのかわりに

両城とも家臣らは助命されています。八上城攻めの場合も、城主の

波多野兄弟の死をもって家臣らの助命を乞うため安土に向かったと

考えるのが妥当です。

 

 

光秀の家老斎藤利三はもとは室町幕府の奉公衆で、その後いく度か

仕官先を変え、西美濃三人衆の一人稲葉一鉄が信長に寝返ると

一鉄に仕えました。しかし一鉄と何事かで揉めたらしく、光秀へと

仕えることになった人です。一鉄は光秀に対し利三を返すよう訴え、

信長が激怒して光秀の髻(もとどり)をつかんで突き飛ばし、脇差しで

刺殺しようとしたという話が『川角太閤記』にあります。

後の俗書はこれに尾ひれを付けておもしろおかしく書き立てました。

以後、様々な作り話が書き続けられていきます。

 

 

天正10年5月の庚申待(こうしんまち)の夜。

信長と柴田勝家、光秀らが夜通し宴会をした折り、光秀が小用に

立つとそれに怒った信長が光秀をきんかんあたまと罵り、

首を切ろうとしたという話があります。
庚申待というのは民間伝承による行事です。

人間の体の中には三尸(サンシ)の虫がいて、

庚申の日の夜に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、

罪状によって寿命が縮まったり、死後に三悪道に墜ちるとされ、

そこで庚申の夜、虫が体を抜け出さないよう夜通し起きて酒盛りなどを

する庚申待という行事が生まれました。
一晩続く酒宴の間、小用にも立てないなどということはどう考えても

あり得ません。しかもこの年の5月、柴田勝家は北国で上杉氏と

戦っており、安土で暢気に庚申待などしているはずがありません。
これも明らかな作り話であるとわかります。

 

 

甲州武田攻めで諏訪の法華寺に陣取った時、光秀が

「われらが骨折った甲斐あって諏訪が上様のものになった」と言い、

それを聞きつけた信長が光秀の頭を欄干に押し付け「お前が

どれほど骨を折ったのだ!」と激怒したという話が、これも俗書

『祖父物語』に書かれています。

 

 

気が付かれたかと思いますが、『川角太閤記』で最初に信長が光秀の

額を打ち付けたということが書かれ、それ以降の俗書には

決まったように光秀の頭のことがエスカレートして

書かれていくようになります。
「きんかん頭」というあだ名を付けられたとか、髻を掴まれて

付けていたカツラが外れたので信長を恨むようになったとか。
元をたどると『川角太閤記』に行き着き、『川角太閤記』に関与して

いるのはもちろん秀吉です。

光秀が生きていた時代の良質な史料には、光秀が禿げていたとか

カツラを付けていたなどという記述は一切ありません。

 

信長が秀吉の妻に宛てた書状により、「はげねずみ」というあだ名を

付けられたのは誰あろう秀吉自身であることが判明しています。
光秀が頭のことで信長を恨んでいたというのは真っ赤な嘘です。

秀吉こそが信長に付けられたあだ名に恨みを抱き、みずからの

コンプレックスを光秀に押し付け、光秀を謀反人としてさらに

貶めるために「カツラをからかわれ侮辱されたから信長を恨んだ」

という卑俗なイメージを植え付けたのです。

 

 

もう一つ怨恨説の根拠として、イエズス会宣教師が残した

記録があります。

そこには、安土の密室で信長が光秀を一度か二度足蹴にしたという

内容が記されています。密室での出来事をどうして外部の人間が

知り得たのか不思議です。また、もしもこれが本当の出来事だとして、

この程度で光秀が信長を恨んだとは思えません。

 

同じくイエズス会士が岐阜城の信長を訪ねた記録に、

「信長は異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され

畏敬されている。彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは

きわめて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにして

ただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、

外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。

彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、

馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って

差支えがありません。」とあります。

 

このように、信長はすべての家臣に対し厳格な態度で接していました。

手をあげることや足蹴にすることもあったでしょう。

この激烈な織田家の中で、光秀は後からやって来た外様で

ありながら短期間で家臣中ナンバーワンと言えるほどの位置に

出世しています。

少々足蹴にされたぐらいでいちいち謀反を考えるほど恨んでいたとは

到底思えません。

 

 

信長に反旗を翻したのは幾人もいます。

信長の弟・織田信行に従い謀反した柴田勝家と林秀貞。

浅井長政、足利義昭。

信長の家臣となった松永久秀しかり荒木村重しかり、みな

政治的理由が謀反の原因として考えられています。

しかしなぜか光秀一人が、怨恨説やノイローゼ説といった

政治的背景を考えない俗書やフィクションに書かれたことが

真実だとして現在も語られ続けています。

 

 

 

 

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