本能寺の変 諸説を考える (1) | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。

 


人気ブログランキングへ

 

 

 

「本能寺の変 その時光秀は…」のシリーズで、事変における光秀の

行動とその背景について書き綴ってきました。
一段落ついたので、次は本能寺の変がおきた原因として

語られている多くの「説」についてご紹介していこうと思います。

 

 

本能寺の変から今年で435年。
現在もこの事変に関して多くの人が関心を持ち、様々なメディアで

取り上げられています。実は本能寺の変について研究されるように

なったのは、ここ二十年ぐらいのことだそうです。
以前は、「織田信長が殺された。犯人は明智光秀。」という

結論の出た事件として扱われ、本格的に学問の対象として

研究されてはいませんでした。

それがこの二十年の間に史料が精査され、あらためて研究対象と

されるようになってきたそうです。
その影響で小説や映画、ドラマなど、フィクションの世界でもさかんに

取り上げられるようになりました。小説家や自称研究家が

書いたことを、そのまま学説ででもあるかのように信じる人も

多く見受けられます。


数十にのぼるといわれる「~説」について、有名なものを

ご紹介していくことにしました。

皆さんはこれらの「説」をどう思われるでしょうか。

 

 

まず最初に「光秀単独犯説」の中の「野望説」からご紹介します。
これは文字通り、謀反をおこしたのは光秀単独によるものだと

する説です。

単独であることを共通項として、その動機を一つの理由に

求める説と、いくつかの理由を原因とする複合説とがあり、

それらの中に「野望説」が含まれます。


明智光秀研究の嚆矢といわれる『明智光秀』で著者の

高柳光壽が提唱したことにより、長年有力な説の一つとされて

きたのが「野望説」です。
高柳氏が「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。

光秀も天下が欲しかった。」と著したように、「野望説」は、

戦国武将はみな天下人になることを目指したということを

前提としており、光秀も戦国武将の一人として当然のように

天下取りを目指したことが謀反の理由とされます。
野望説支持者は、「野望説」と同等によく知られる「怨恨説」を

否定します。

信長に対する怨恨や将来への不安といった消極的動機を否定し、

天下を取りに行くという積極的な意志を動機であるとしています。

 

 

野望説の提唱者には高柳氏をはじめ、古くは徳富蘇峰や

尾崎秀樹(ホツキ)といった幕末・新選組好きにお馴染みの

人物もいるそうです。
(徳富と尾崎の野望説はまだ読んだことがないので、そのうち機会が

あれば参考程度に読むかもしれません。)

 

 

近年の研究では、信長を含め戦国武将がみな天下取りを

目指したという前提自体に疑問が投げかけられています。
たとえば、今川義元が上洛途上に邪魔な信長と

ぶつかったのが桶狭間山の戦いであると長年にわたり言われて

きましたが、最近では義元は上洛など考えておらず、

信長と戦ったのは三河や尾張を取り合う領土紛争の一環であったと

する説が主流になっています。

 

 

 

 

ペタしてね

どくしゃになってね…

アメンバーぼしゅうちゅう