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三宅藤兵衛の位牌のある明徳寺(みょうとくじ)へ参りました。
藤兵衛は富岡城から出陣し、本渡の町山口川
(まちやまぐちがわ)付近で一揆軍相手に戦い、部下たちと
ともに討ち死にしました。
亡くなった広瀬村は藤兵衛の知行地で、そのあたりの
山仁田(やまにだ)というところに庵があり、庵主が藤兵衛の
遺骸を埋めて丁重に弔ったということです。
現在山仁田の庵はなくなり、近くの明徳寺に位牌が
納められています。
天草・島原の乱後、天草は天領となり、その初代代官となった
鈴木重成はキリシタン領民を改宗させるために兄の禅僧・
鈴木正三に助力を仰ぎ、多くの寺院を開きました。
曹洞宗・向陽山明徳寺もそのうちの一つで、山口県・
瑠璃光寺の中華珪法禅師を招いて開山したものです。
豪華な山門をくぐり、本堂で位牌を見せて頂きました。
明徳寺山門
明徳寺本堂
藤兵衛と一緒に亡くなった家臣二名、中間二名の位牌も
ともに納められています。
中央・藤兵衛位牌
読経はお願いしていなかったにも関わらず、ご住職が
ご厚意でお経をあげて下さいました。
位牌を大切に守ってくださっていることが伝わってきました。
これからも先祖を宜しくお願いいたしますとご挨拶して
本堂を後にしました。
明徳寺境内に通称・異人地蔵と呼ばれる像がありました。
横から見ると鼻が高く彫りの深い異国的な顔をしています。
山門と参道を結ぶ石段に興味深いものがあります。
司馬遼太郎氏が『街道をゆく』の中で触れている、石段に
彫られた十字の印です。
写真ではよくわかりませんが、石段のあちこちに十字が
刻まれ、クルスを踏みながら石段を上り下りするように
なっています。
キリシタンを根絶するという強い意志がこのような
かたちとなって現れているようです。
徳川時代のキリシタン弾圧の凄まじさの一端が
うかがえます。
そしていよいよ念願の三宅藤兵衛墓へ。
蘇鉄を背景に南国的な景色の墓地でした。
古びた墓石に並んで供養のための石碑が建てられて
ありました。
表側に桔梗紋とともに「有馬 三宅一族」と彫られています。
三宅藤兵衛子孫である熊本藩士の家に生まれ、その後
島原・有馬村に移住したわが一族が献碑したものです。
有馬村・三宅一族が藤兵衛直系子孫であることを示す
物証です。
この桔梗紋、丸で囲んだように見えますが、桔梗の花を
浮き立たせるために周囲を掘り下げたためにそう見えている
だけで「丸に桔梗」の家紋ではなく、光秀使用紋と同じ丸の
付かない桔梗紋です。
「丸に桔梗」の紋は、オリジナルの桔梗紋が出来た後に
成立したものです。
戦国時代の武家の家紋や旗紋は、戦場で遠くからでも
認識しやすいようにシンプルなものが多く用いられました。
江戸期に入りオリジナルの家紋を変化させて複雑化していく
傾向が見られます。
話題が逸れました。
お墓に「光秀」というお酒をお供えしました。
光秀の菩提寺・西教寺で年に一度、光秀ゆかりの地を訪ねる
日帰りバスツアーがあり、その参加者に配られるものです。
わたしはお酒が飲めないのでどんな味がするのかは
わかりません。
ガイドのKさんがロウソク、お線香を供えてくださり、鉦まで
用意しておられ、わたしが合掌している間鳴らして
くださっていました。
わたしの持ってきたお線香は百円ショップで買ったという
セコさなのに、Kさんは京都・東寺の貴重なお線香を
分けてくださいました。
高級な和菓子のようなニッキの良い香りでした。
百均線香はほとんど香りもなく…。
藤兵衛の家臣らのお墓もすぐ隣にあるので、そちらにも
お参りしました。
亡くなった後も藤兵衛を守ってくださっているかのようでした。