島原・天草旅行記 5 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。




人気ブログランキングへ






旅の二日目は島原です。



天草・鬼池港と島原・口之津港とを結ぶ早崎瀬戸を

島鉄フェリーが運行しています。
一日に十数本、両港から同時出航していて、所用時間は

約三十分。
料金は360円(平成27年11月時点)ですので、観光だけでは

なく地元の生活の足としても利用されています。






早崎瀬戸の波は穏やかでした。
鬼池港を出港するとすぐに島原側の島影が見えてきます。
天草と島原、両側の一揆軍が連携を
取り合って蜂起するのが

可能な距離だったことがわかりました。



島原を案内してくださるSさんと口之津港で落ち合いました。
Sさんは島原三宅家の親戚にあたる方で、法律関係の

お仕事をしておられ、戸籍に関してのプロです。
三宅家のこともわたしの知らないことまでよくご存じで、

とても頼もしい案内人です。




口之津港は永禄五年(1562)、有馬義直の時代に

南蛮貿易港として開かれました。
九州の最果ての地口之津はヨーロッパ文化が流れ込む

入り口となり、大いに栄えました。
1579年(天正七年)、ヴァリニャーノは口之津で

全国宣教師会議を開き、1582(天正十年)ルイス・フロイスは

口之津からヨーロッパに向けて本能寺事変の報を

発しました。
天正十年は口之津港へ南蛮船が最後の入港をした年となり、

その後寄港地は長崎へと移っていき、口之津港の最も栄えた

時代は終わりを迎えました。
現在はひっそりとした港町です。



岸壁近くに赤いアーチのなんばん大橋や

口之津歴史民俗資料館 が見えます。
今回は寄らなかったので、次回はぜひ資料館や
南蛮関係の場所を訪ねてみたいです。












Sさんの車でまずは原城に向かいました。
前回、五年ほど前にはじめて島原へ来た時は大雨に降られ、
お墓へは行けず、原城も車の中からちらっと眺めただけ

だったので、五年がかりのリベンジです。




原城は県下最大の平山城です。
島原の乱で一揆軍が立てこもった当時すでに廃城では

ありましたが、ある程度の建物が残っていたそうです。
乱後、建物や虎口などは徹底的に破壊され、現在は掘や

池の跡、石垣の一部などが残るだけです。

発掘調査により大量の石、瓦、人骨が出土しました。
















天草、そして島原のあちこちに天草四郎の姿があります。

像が立っていたり絵が描かれていたり、供養碑だったり。
いくつも見た中で、原城の四郎像が一番気に入りました。





鬼池港の四郎





原城の四郎





原城・四郎の供養碑




原城は島原湾に面して南東に突出した岬を利用して造られた
要害です。
海にむかって小さな石像が立っていました。







一揆軍の人々は海のむこうのヨーロッパから自分たちを
助ける船がやって来ると信じて待っていました。
ところが実際にやって来たのはイエズス会の属する

カトリック国の船ではなく、幕府に依頼され一揆軍を

攻撃しにきた新教国オランダの船でした。
知恵伊豆こと松平信綱の考えたこの作戦は、幕府軍側の

諸大名たちからは内乱のことに外国の手を借りるのは

不名誉だと非難され、一揆軍からは外国の手を借りなければ

ならないほど弱いのかとののしられ、知恵伊豆は早々に

オランダ船を帰すことになりました。



原城から臨む海は美しく、島原半島は世界ジオパーク
認定されていて、さらに原城は長崎の教会群とともに

世界遺産登録 を目指しています。
高山右近列福運動しかり明智ガラシャのオペラ復活しかり、
400年の歴史について世界に知られるような流れが

なぜか今、いっせいにおきているような気がします。






ペタしてね

読者登録してね