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戦国時代末期まであったという本戸城跡に造られた
城山公園(殉教公園)内に、天草・島原の乱の殉教者を祀る
「千人塚」があります。
町山口川での激戦で亡くなった両軍の人々を祀った塚です。
千人塚の近くには、てまり塚という石碑がありました。
天草四郎の恋人だった少女が四郎を偲んでてまりを
作り続けたという伝説があるそうです。
四郎に関してはいくつも伝説がありますが、長崎から
流れてくる話が多いのだそうです。
祇園橋と城山公園の近くに天草文化交流館
があります。
昭和十年に完成した洋館造りの旧天草教育会館本館です。
こちらの内部、工芸室として使われている部屋に
天草土(どろ)人形
が展示されています。
こちら
の記事に書いたように、天草土人形はわたしの父方の
祖母の先祖が作り始めた郷土玩具です。
素朴な土製の人形で、観音像や大黒さま、やまんばと
呼ばれる母子を象ったものなどいくつも種類があります。
観音像をマリア像になぞらえるなどして、隠れキリシタンが
密かに礼拝の対象として用いたそうです。
天草土人形というのは、唐津藩士だった広田和平が浪人し、
天草・東向寺の屋根瓦の葺き替え工事のためにやって来て、
東向寺門前に窯を開いたことからはじまったものです。
工事終了後も門前町に残った和平は人形作りの商売で
生活するようになったということまでは知っていたのですが、
今回天草へやって来て、人形を作るようになったきっかけを
はじめて知りました。
広田和平という若者が瓦職人として東向寺門前に
住むようになり、ある年の暮れ、和平が母のように慕う近所の
おばあさんのもとを訪ねると、おばあさんはいつになく
厳しい顔つきをしていたそうです。
「今日は母の命日。母は踏み絵を踏まずに殺された。」
自分は踏み絵を踏んだので殺されずにすんだという
おばあさんは、仏壇の奥から焼き物の観音像を取り出して
泣きながら祈り始めました。
老婆の口からもれる祈りの言葉は「アンメンジンス、
アンメンジンス、サントメ…」
「これはマリア観音様じゃ。」おばあさんは
隠れキリシタンだったのです。
年が明けておばあさんは亡くなり、悲しんだ和平は
おばあさんをしのび、瓦用の粘土で「赤ん坊を抱く母」の
人形を作りました。
天草に伝わる山姥(やまんば)の話からやまんばと
名付けられた人形は飛ぶように売れました。
隠れキリシタンが聖母子像に見立てて密かに拝むために
買っていったからだと伝わっています。
天草土人形はその誕生のきっかけからしてキリシタンが
関係していたのかと知り驚きました。
和平が窯を開いて住んだという東向寺の門前。
その同じ場所に、現在も広田家は暮らし続けているそうです。