光秀冤罪説を考える 4 光秀と御霊神社 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて

お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から

お読みください。





福知山御霊神社



DVC00002.jpg




福知山御霊神社の成り立ちについては、現在

発行されているパンフレットや現住職のお話からは、

何も謎めいたところは感じられません。
ただ、なぜ「明智神社」ではなく「御霊神社」

なのかということを突き詰めていくと、表向きの理由

だけではうなずけない部分があることがわかって

きました。



パンフレットに書かれた御霊神社年表は以下の

とおりです。




室町時代・文正年年間(1466~67)
福知山紺屋町にあった榎の老樹の下に、稲荷社

<宇賀御魂大神> が祀られたことに始まる。



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榎の樹下の稲荷社跡





天正12年(1584)以降~
正確な年は不明だが、この頃、宇賀御魂大神の

御名が宇賀御霊大神に改められる。



江戸期
承応2年(1653)以降~
社殿の改造が行われる。



宝永2年(1705)
朽木氏の初代藩主の治世下、福知山領民が

町内寺町の常照寺に光秀の霊を勧請する。

(常照寺内に光秀御霊社の創建)



元文2年(1737)
朽木氏五代藩主玄綱、福知山領民出願の

「光秀御霊会」執行の儀を許可する。



寛保(1741)以降~
この期のいつか年月は不明だが、常照寺光秀

御霊社が、紺屋町稲荷社(宇賀御霊大神)の

摂社として稲荷社に合祀される。

その後、大正7年(1918)、道路延長工事のため、

現在の中ノ町に移転となる。





この年表で気になるのが、社史に記されるような

大きな出来事があった年に、重なるようにして

気になる出来事がおこっていることです。


すなわち……


天正12年(1584)、「宇賀御魂大神」の御名が

「宇賀御霊大神」と改められた年に

椙原(杉原)家次が死亡。
承応2年(1653)、社殿の改造が行われた年、

椙原家当主・重光(幕府の記録では重玄)が17歳で

死亡。跡継ぎがなく椙原家断絶。
宝永2年(1705)、福知山藩朽木家初代藩主・

稙昌(たねまさ)の時代、この年天災が相次ぎ、

常照寺内に光秀の御霊が勧請される。



気になる符合ではありませんか。




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