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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。
福知山御霊神社の成り立ちについては、現在
発行されているパンフレットや現住職のお話からは、
何も謎めいたところは感じられません。
ただ、なぜ「明智神社」ではなく「御霊神社」
なのかということを突き詰めていくと、表向きの理由
だけではうなずけない部分があることがわかって
きました。
パンフレットに書かれた御霊神社年表は以下の
とおりです。
室町時代・文正年年間(1466~67)
福知山紺屋町にあった榎の老樹の下に、稲荷社
<宇賀御魂大神> が祀られたことに始まる。
天正12年(1584)以降~
正確な年は不明だが、この頃、宇賀御魂大神の
御名が宇賀御霊大神に改められる。
江戸期
承応2年(1653)以降~
社殿の改造が行われる。
宝永2年(1705)
朽木氏の初代藩主の治世下、福知山領民が
町内寺町の常照寺に光秀の霊を勧請する。
(常照寺内に光秀御霊社の創建)
元文2年(1737)
朽木氏五代藩主玄綱、福知山領民出願の
「光秀御霊会」執行の儀を許可する。
寛保(1741)以降~
この期のいつか年月は不明だが、常照寺光秀
御霊社が、紺屋町稲荷社(宇賀御霊大神)の
摂社として稲荷社に合祀される。
その後、大正7年(1918)、道路延長工事のため、
現在の中ノ町に移転となる。
この年表で気になるのが、社史に記されるような
大きな出来事があった年に、重なるようにして
気になる出来事がおこっていることです。
すなわち……
天正12年(1584)、「宇賀御魂大神」の御名が
「宇賀御霊大神」と改められた年に
椙原(杉原)家次が死亡。
承応2年(1653)、社殿の改造が行われた年、
椙原家当主・重光(幕府の記録では重玄)が17歳で
死亡。跡継ぎがなく椙原家断絶。
宝永2年(1705)、福知山藩朽木家初代藩主・
稙昌(たねまさ)の時代、この年天災が相次ぎ、
常照寺内に光秀の御霊が勧請される。
気になる符合ではありませんか。




