『信長公記』に見る明智光秀  その5 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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比叡山焼き討ちの翌元亀三年(1572)。

この年は反信長勢が各地で激しい動きを起こした


年でした。






正月、六角承禎父子が一揆軍と組んで蜂起、


南近江の金森・三宅の両城に立て籠もりました。

正月十四日、本願寺顕如は武田信玄に書状を送り、


信長が摂津・河内に出陣した場合、その背後を


突くように依頼しています。






三月五日、信長は江北浅井攻めに出陣しました。

岐阜県大垣市に陣を取り、翌日は横山(滋賀県


長浜市)に着陣。

七日、敵の小谷城と山本山との間に野陣をかけ、


与語・木本まで焼き払いました。

九日に横山へ戻り、翌十日、上洛の途につき、


安土の常楽寺城に泊まりました。

この常楽寺城というのは、安土城が築かれる前に


信長がよく宿泊していたところです。

城は常楽寺港の近くにあり、信長はここで


すもう大会を開き、活躍した者を家臣にとりたてた


こともありました。






三月十一日、信長は志賀軍に進み和邇に陣をとり、

木戸・田中を攻めて砦を築かせ、光秀、中川重政、

丹羽長秀を配備しました。






※和邇・木戸(大津市、旧滋賀郡志賀町)、


田中(高島市、旧高島郡安曇川町)









巻五 与語・木本働きの事




「三月十一日、志賀郡へ御出陣。和邇に御陣を


居ゑさせられ、木戸・田中推詰め、御取仰付けられ、


明智十兵衛・中川八郎右衛門・丹羽五郎左衛門、


両三人取出にをかせられ、」







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