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元亀3年(1572)。
将軍足利義昭は、頻繁に上洛する信長のために、
武者小路へ屋敷を作らせることとしました。
この頃義昭と信長はまだ決定的な敵対関係には
至っていないようですが、反信長陣営の結集は
さらに進んでいました。
三好義継と松永久秀・久通父子は信長方の
河内交野城を攻め、摂津の伊丹忠親と高槻城の
和田惟長とは縁戚関係を結んで三好義継に
通じています。
紀州の門徒らは本願寺に入り、義昭と武田信玄とは
誓紙を交わしています。
信長は佐久間信盛、柴田勝家らを河内に
出陣させましたが、脱出した義継は若江城に、
松永久秀は大和信貴山城に、松永久通は
多聞山城へとそれぞれ立て籠もりました。
そのため信長軍が押し寄せてくるのではないかと
大和は恐慌に包まれました。
5月、信長軍の先陣が西京に到着すると、
筒井順慶(筒井氏は、大和守護興福寺に属す
国人衆から戦国大名に成り上がった一族)が
信長軍と交渉に入り、信長軍が奈良へ乱入する
ことは免れました。
5月、信長は岐阜に帰還。
7月には嫡男の奇妙(のちの信忠)の具足初として、
奇妙を連れて江北に出陣しました。
赤坂を経て翌日横山に着陣。
各地に軍勢を動かして浅井方を攻め、近江と
越前の国境一帯の堂塔伽藍、名所・旧跡を残らず
焼き払い、一揆に加担していた僧俗多数を
殺戮しました。
琵琶湖の湖上からは林員清、猪飼野正勝、
山岡景猶、馬場孫次郎、居初又二郎、そして
明智十兵衛らに命じて囲い舟(かこいぶね。
防御装備を施した舟)を作らせ、海上から北近江
各地の敵地を攻撃させました。
古来から神の棲む島といわれる竹生島も、火矢、
鉄砲、大砲などで砲撃されています。
明智十兵衛こと光秀はどこで海戦術等を学んだ
のか、舟を扱い水軍を率いていたことがわかります。
信長が近江に造った(造らせた)四つの城。
長浜城、大溝城、安土城、坂本城。
これらの城はすべて琵琶湖の湖岸に面して
造られ、四つの城それぞれが等間隔に
建っています。
四つの城のうち坂本城を除く三つの城はすべて、
琵琶湖の内湖と繋がっていました。
(現在では埋め立てられて存在しない内湖も
あります)
これらの城の周囲にはそれぞれ港や舟溜まりが
存在し、港周辺の住人は漁業や運送業に携わると
同時に、非常時には水軍の兵士となることが
知られています。
信長は内湖を使って琵琶湖を押さえることにより、
商業面と軍事面の両方を掌握しようとしたのかも
しれません。
坂本城は内湖は抱えていませんが、城の三方が
琵琶湖にせり出して建ち、直接琵琶湖に舟を
漕ぎ出すことができるという特殊な形の城で
あったと推測されています。
他の三つの城のようにもともと内湖とともに存在した
水軍を利用したのではなく、光秀が坂本城を
造った際に、あらたに水軍を編成した可能性が
考えられます。
琵琶湖に建つ四つの城のうち、坂本城は光秀の城。
そして大溝城は、光秀の娘婿で信長の甥である
津田信澄が造った城です。
その縄張りには、光秀と藤堂高虎が関わったとの
伝承があります。
坂本城、そして大溝城にはそれぞれ水軍が
編成されており、浅井・朝倉軍を撃退するのに
たびたび出陣しています。
これらの近江水軍の編成と運用、そして琵琶湖
沿岸の水城を利用した軍事、商業、行政に
おいても、光秀が重要な役割を負っていた
可能性が高いと思われます。
「巻五 奇妙様後具足初に虎御前山御要害の事
七月廿四日、草野の谷、是又放火候。
ならびに大吉寺と申候て高山能き構(かまへ)
五十坊の所候。
近里近郷の百姓等当山へ取上り候。
前は嶮難のぼり難きに依って麓を襲はせ、
夜中(やちゅう)より木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門
うしろの山続きに攻上り、一揆僧俗数多切捨てられ、
海上は打下(うちおろし)の林与次左衛門・
明智十兵衛・堅田の猪飼野甚介・山岡玉林・
馬場孫次郎・居初又二郎仰付けられ、囲舟を拵へ、
海津浦・塩津浦・与語の入海、江北の敵地焼払ひ、
竹生嶋へ舟を寄せ、火屋・大筒・鉄砲を以て
攻められ候。」
大溝城跡と付近に残る内湖
