桔梗紋を持つ人 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

桔梗紋は、美濃の守護大名として二百年も栄えた
土岐氏の家紋として有名です。
この桔梗紋を持つ者にはなぜか悲運の影が

つきまといます。




まず桔梗の花を最初に家紋とした土岐氏ですが、
二百年も栄え大きくなりすぎたのを将軍足利義満に

うとまれ、陰謀を謀られ衰退していきました。
最盛期から比べると力は大きく削がれましたが

それでもなんとか持ちこたえていたものを、

土岐頼芸(ときよりなり)の代に斎藤道三に国を

乗っ取られ、美濃を追放されてしまい、
守護職としての名門土岐氏は滅亡しました。





熊本城を築いた加藤清正も桔梗紋を持つ者の

一人です。
清正の家紋は「蛇の目」が有名です。

清正が肥後入りする際に肥後の旧領主尾藤氏の

桔梗紋を受け継ぎ、それ以降桔梗紋をあわせて

使用するようになったといわれていますが、

これは実際には少し違います。


清正の加藤氏は土岐一族であり、もともと桔梗紋を

使用していました。
尾藤氏が偶然加藤氏と同じ桔梗紋を使って

いたので、秀吉の許しを得て没落した尾藤氏の

桔梗紋付きの武具などを受け継いだというのが

正しいいきさつです。
加藤家は清正の死後、二代忠広の代に改易

(取り潰し)となりました。
虎退治で有名な清正の時代のすぐあとに、早くも

没落していったのです。





江戸城を造った太田道灌もまた桔梗紋を

持つ者です。
太田氏の家紋は「細桔梗」です。
道灌は相模国出身で、築城の名手といわれました。
軍略に長け、風流人でもあった道灌は力が大きく

なりすぎたため主君である扇谷上杉家の定正に

うとまれ殺害されました。
亡くなる間際「当方滅亡」(自分が死ぬと主家も

滅びるだろう)と予言を残したと伝わります。





「組み合わせ角に桔梗」の家紋を使っていた

坂本龍馬も薩長同盟を締結させるなど幕末情勢に

影響を与える活動をしましたが、慶応三年(1867)

十一月十五日、奇しくも自身の誕生日に

暗殺されました。





幕末に生きた人で桔梗紋を持つ有名人が

もう一人います。
長州藩の医師で兵学者の大村益次郎です。
上野戦争を一日で制するほどの活躍を見せた

益次郎ですが、「国民皆兵」などの急進的な

益次郎の政策に不満を持った元長州藩士らに

襲われ、一命は取りとめたものの重傷を負い、
その後傷口から入ったばい菌が元で敗血症となり

亡くなりました。





そして桔梗紋を持つ者として最も有名といって

いいかもしれない明智光秀。
織田家臣団の近畿管領とまで言われる地位に

登りつめたのち、主君信長を謀反により倒し、その

わずか十数日後に山崎合戦で敗れ、落ち延びる

途中に殺害されました。





これらの人たちはみな一瞬の栄華に輝いた後、

一転して非業の死を遂げました。
「吉が更なる」縁起の良いはずの桔梗紋ですが、
戦乱の世に咲いたとき、その花の青紫は不吉な色に
なったかのようでした。



といっても桔梗紋を持つ人がみなすべて不幸になる

わけではもちろんありません。
たまたま有名人で桔梗紋を持つ悲劇の人が何人か

いただけのことにすぎません。





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