明智秀満  その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

光秀の系図や出自は不明な部分が多く、研究者の

数だけ自説があるといっても過言ではない

ほどです。
本能寺の変の原因が、○○説や△△説と

いった風に、唱えた人の数だけあるのと似ています。

光秀の系図が混乱している原因は、土岐氏の

系図が光秀よりもずっと遡った時代からすでに

混乱していたことに加え、光秀が謀反を起こした

ことにより、それ以降の光秀や明智氏に関する

系図が隠されたり消されたりしたことも要因と

なっています。




光秀に負けないほど出自に謎があるのが、

明智秀満です。

二木謙一氏編の『明智光秀のすべて』に載せられた
明智秀満の経歴によると…



「姓・三宅弥平次。左馬助。光秀の女婿となって

明智秀満と名を改めた。秀満の妻は荒木村次の室

だったが荒木氏謀反の際に明智家へ戻され、後に

秀満に再嫁した。
光秀の丹波経営に主力として活躍。天正九年には

丹波福知山城を預けられている。
天正十年本能寺の変においては先鋒として

本能寺を焼き討ちした。
その後安土城の守備についていたが、山崎合戦で

光秀敗死の報を聞くと光秀の居城坂本城に退いた。
ほどなく秀吉方の堀秀政に攻囲されたため、光秀の

妻子たちを刺殺したあと城に火を放ち切腹した。」


…といった内容が書かれています。




『細川家記』には美濃の塗師の子であり、

『武功雑記』には大津の白銀師の子であるとの

記述がありますが、これらは高柳光寿氏が

否定されています。
『武功雑記』は本能寺の変から100年以上後の

時代に成立したもので、あちこちの武将に関する

逸話を書き集めたものです。
あやしげな話もたくさん混じっていますので、まるごと
信用するわけにはいきません。
『細川家記』は『明智軍記』の影響が多々

見られるので、これも全部を鵜呑みにするわけには

いきません。



同時代資料である『宗及茶湯日記』の天正八年の

記述には三宅弥平次、天正九年には明智弥平次と

あるので、この間に光秀の娘と結婚して改姓したと

みられます。
また、三宅家の出身であったこともこれにより

確認できます。



明智秀満の名は本人の署名が残っているので、

元の名を三宅弥平次といい、光秀の女婿となり

明智秀満と改名したというのがわかっています。
ただし二木謙一氏は「同時代人である太田牛一の

『信長公記』には明智左馬助という記述があり、

同じくほぼ同時代に書かれた『惟任謀反記』に
明智弥平次光遠と書かれている。

これは本能寺の変後に光秀から偏諱(へんき)を

与えられて光遠と改名し、官途名として左馬助(守)を
称したと想像できる。」と延べられています。




明智秀満の名を探っていくと、明智氏、三宅氏、

そして明知遠山氏が複雑に絡み合い、調べれば

調べるほどワケのわからないことになっています。
おおざっぱにまとめれば、明智氏、三宅氏、

明知遠山氏の三つとも土岐氏という大きなくくりで

くくれるので、とにかく光秀と秀満は舅と婿の関係に

なる以前から同族だったと言えます。





つづく




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