混乱する光秀の系図 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

光秀の関連系図について書こうとしたのですが、
ややこしすぎて挫折しました。
多くの研究者がその謎の解明にとりくんで

おられますが、いまのところ光秀の出自は

土岐氏であるということ以外、決定的なことは

いえないのが現状です。



出処が同じで共通している箇所の多い系図が

あるかと思えば、他には見られずその系図のみに

書かれた名前のあるものがあったりと、

とても混乱しています。



明智や光秀の名の見られる系図の多くは、

江戸期以降に成立したものがほとんどで、しかも

南北朝の時代に書かれた古い文書でさえすでに

混乱していたりするので、光秀の出自を正しく

読み取るというのはもはや不可能かと思われます。





「土岐系図三宅家写本」いう系図には、光秀と

正室との間に四男四女があり、側室との間には

六男二女があり、光秀には合計十六人のこどもが

あったと書かれています。

この系図にはあきらかな間違いが多々

見受けられます。


たとえば、「長女・秀。明智左馬助光俊に嫁す」と

ありますが、光俊というのはまちがい。
正しくは三宅弥平次(明智秀満)です。

それから「側室との間の子・於鶴丸」というのは

この系図にしか出てこず、他の系図には見られない

身元不明の人物であり、実在したのかどうかも

わかりません。

同じく側室の子、「名は某・浅野内蔵助、大石良雄の

祖父」という記述があります。
つまり忠臣蔵と結び付けたいようですが、この一つを

とってもこの系図のいいかげんさがわかります。

それから「側室の子・秀寿丸、後に三宅藤兵衛。
山崎合戦後細川家家臣」とあります。
これは完全にでたらめです。
三宅藤兵衛は光秀と側室との間の子ではなく、

光秀の娘(親戚からの養女説あり)と三宅弥平次

(明智秀満)の間の長男です。

そして正室との間の三男・光泰というのも不明、

四男・乙寿丸も不明…。

といったようにこの系図、どこからどうやって

作られたのか、まったくもっておかしな

ところだらけです。




歴史学者で光秀研究の先駆者高柳光寿氏は、

光秀のこどもで確実に存在がわかっているのは、

長男・光慶ともう一人不詳の男子。
女子は長女・倫、織田信澄の妻、細川忠興の

妻・玉/珠。
男子二人女子三人、合計五人だけだと結論

されています。
光秀に側室がいたのかどうかも不明です。





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