島原で  その2 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

S田家を後にし、長崎市内から島原鉄道に乗り
島原へ移動しました。



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島鉄も他の過疎地域の鉄道会社と同じく利用者の

減少により路線短縮、便数も減り、島原への

交通の便は悪くなってきているそうです。
島原半島と天草諸島に属する雲仙天草国立公園
日本ではじめての国立公園指定を受けた地域で、
雲仙の温泉街も以前は外国人観光客が多く訪れて
とても賑わったそうですが、近年は客足も減少

しているそうです。
世界ジオパーク に認定されたほどの風光明媚な

ところなので、島原天草地方の良さがもっと

知られると良いのになぁと思います。




島原駅正面の道の突き当たりには島原城が

そびえています。
やっと島原に来れたと、感慨ひとしおでした。
ちいさな町に不似合いなほどの高さの島原城を

見上げていると、このちいさな町で370年前に

幕府を揺るがすほどの凄惨な事件が興ったことを

思いちょっと寒気がしてきました。


島原の町は人通りも少なくほんとにちいさな町で、
どこにいても目の前に恐ろしいほどの近さで山が

迫ります。
20数年前の雲仙普賢岳の大噴火の時にはどれだけ
恐かったことでしょう。

現在の島原は町並みも綺麗になり水路には透明な

水が流れ、人が少ないのも散歩するにはちょうどよく、
できればゆっくり観光で訪れたいと思わせる

町でした。
わたしは限られた時間の中で家系調査をしなければ

ならないので観光はまったくできませんでした。




島原城内の図書館の中に「肥前島原 松平文庫」

設けられています。
島原藩主松平家が収集していた古典籍が保存

されており、こちらに藩士名簿の閲覧予約を

していたところ、なんと館長みずから探してくださる

ことになりました。





わたしの曽祖父は三宅家の娘と結婚し養嗣子に

なった人で、実家は中村家といいます。
島原の中村家というのを調べているうち、

別当中村家屋敷 というものを見つけました。
この中村家というのがわたしの曽祖父と何か関係が

あるのではないかと思い、島原藩の藩士名簿を

探そうと思ったわけです。


長崎に来る前の調査で、わたしの家は血族を

守るために代々血族婚を繰り返していたということが

わかったので、曽祖父の実家というのもおそらく

島原藩士の古い家だろうと見当をつけたのです。



図書館で藩士名簿を繰ってみると、中村という

藩士がいることがわかり、しかも島原藩の

医療関係の仕事をしていることがわかりました。
さらにその中村家の子孫の方が自家の歴史を

まとめた『中村家の歴史』という本があるのを

見つけました。

その本にはわたしの曽祖父のことは出て

いなかったのですが、わたしの別の先祖のことが

記されてありました。


その人は医師になったのですが、その後辞めて
長崎市・諏訪神社 の神官になったという人です。
諏訪神社というのは
長崎くんち という大きな

お祭りがおこなわれる有名な神社で、一度テレビで

中継されているのを見たことがあります。
その神官になった先祖は文章や絵が得意な人

だったらしく、神道関係の書物を何冊か

出版しています。
絵もどこかの神社だか寺院だかの壁画だか

天井画だかを描いたらしいのですが、原爆で

消滅してしまったそうです。
後日その人についての資料が思わぬところから

見つかり、不思議なことがあるものだと

思わせられました。

その人は、中村家が宗旨替えをして仏教から神道に

かわった時に、大々的に行った祭祀を

取り仕切ったということが『中村家の歴史』に

書かれていました。





島原藩士中村家を調べたところ、島原藩には

別当職というものがあり、中村家はその別当職を

勤めたということがわかりました。
別当というのは農民の世界でいうと名主とか

庄屋のようなものだそうです。
城下をいくつかの別当職の家がとりしきり、中村家は
別当職筆頭の家で、屋敷は本陣として

使われたそうです。
幕末には龍馬を連れて勝海舟も宿泊しています。





中村家と三宅家の関係について、お世話に

なっている幕末研究家A氏がまたしても大きな

発見をしてくださいました。



中村家出身の幕末の志士・北有馬太郎という人の
生涯を描いた
『漂泊の志士 北有馬太郎の生涯』

という小説があります。
この本は小説ですが、半分はノンフィクションの

ような本で、北有馬太郎の日記が多く

引用されています。

日記自体も現存します。
その日記に「北有馬の叔父甫輔に会う」という

記述があり、中村甫助という名をうちの除籍簿で

確認できました。
年代、北有馬という場所、他の人物との関連等を
調べてみて、わたしの先祖中村甫助と北有馬太郎

とが親類であることが確認できました。
この北有馬太郎の実家中村家の本家が、

別当職筆頭の中村家であることも確認できました。
わたしの曽祖父の家がわかったことは、島原行きの

大きな収穫の一つです。





で、この北有馬太郎(本名・中村貞太郎) という人。
幕末史上でもほとんど知られていない無名の人

なんですが、(何かを成す前に若くして死亡)なんと

清河八郎の「虎尾の会」のメンバーなんですよ!
あの新選組結成のきっかけとなった浪士組を

画策した清河ですよ!


こんなところでまたうちの先祖が新選組とちょこっと
繋がってしまいました。
なんかボーゼンとしました。





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