文久3年遣欧使節団  前編 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

何度も貼りますが











TVで何度か紹介されたことがあるので、幕末ファン

以外の方にも知られたサムライスフィンクス、

エジプト写真などと呼ばれるこの写真。



ここに幕末の蘭方医三宅艮斎の長男、

三宅秀(ひいず)が写っています。
ヒイズ(当時は幼名の復一<またいち>を名乗って

いた)はスフィンクスの肩のあたりに乗っかっている

のですが、撮影時滑り落ちそうになり動いて

しまったせいで、うっすら影だけが写っているという

不思議な写真となってしまいました。






この写真は文久3年(1863)、幕府の遣欧使節団が

エジプトに立ち寄った際に撮影されたものです。
撮影されたのは年を越えた翌元治元年、

池田屋事件の年です。





池田長発(筑後守)を正使とする第2回遣欧

使節団は、日米修好通商条約(いわゆる安政の

開国)により開港された横浜を、再度閉鎖する交渉を

行うために派遣された使節団です。


一度開かれたものをもう一度閉鎖するなどどう

考えてもムリそうなもので、使節団を派遣した

幕府も本気で閉鎖できるものとは思っていません

でした。


幕府としては朝廷や攘夷派に対して、横浜港封鎖の

為に動いているよ!というポーズを示すのが真の

目的だったのです。




というわけで池田使節団にはできるだけゆるゆると
欧州を回ってきてほしかったのですが、フランス宮廷

訪れた一行はフランス相手の交渉に失敗すると、

長発自身が開国の必要性を痛感したこともあり、

他の国々を歴訪するはずだった日程を途中で

打ち切り、早々と帰国してしまいました。



帰国後長発らは目的を達せられなかったとして

石高を減らされたり閉門蟄居を命じられたりといった

罰を受け、長発は隠居しています。





この「横浜鎖港談判使節団」について

鈴木明『維新前夜 スフィンクスと34人のサムライ』
同じく鈴木氏の『追跡 一枚の幕末写真』がよくまとまっています。


古い本で情報が間違っている箇所が目立ちますが
尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』も
お奨めです。



使節団の外国奉行支配役で、維新後は外交官となった田辺太一は
『幕末外交談』を著しました。



他にもこの使節団に参加した複数の人たちが、

日記や記録類を書き残しています。
異国の文化を体感する驚きが綴られていて、
難しい政治背景を抜きにしても、好奇心を

刺激される素晴らしい読み物となっています。




この使節団のことが30年くらい前にテレビで

とりあげられたことがあったそうです。
TBSの「新世界紀行」というドキュメンタリー番組で、
二回にわたり放送されたそうです。
すごーく見てみたいので、どなたかご存知の方は
教えてください~!!






文久3年、池田使節団に加わった当時、

嘉永元年(1848)生まれのヒイズは15歳。

斎藤一の四つ下。



田辺太一の親戚だったヒイズは、田辺の従者という

名目で一団の一人として加わりました。
教育熱心だったヒイズの父・艮斎が、若いうちに

ヒイズに外国を見せたかったので、田辺に

頼んだようです。

従者ということですが、使節団一行は当初英国へも

訪問予定だったので英語の得意だったヒイズは、

実際には英語通訳として随行しました。
結局当初の予定は途中で打ち切られ英国を訪れる

ことはなかったので、英語を駆使する機会はあまり

なかったようです。




田辺太一をはじめ、この使節団にはヒイズの親戚や

のちに縁戚となる人などが参加しています。
エジプト写真を100年を越えて保管し続けてきた

家も、ヒイズの親戚筋にあたります。




使節団としては帰国後、正使や副使らが閉門蟄居の

憂き目に遭うなど、当初から想像されたとおり残念な

結果となりましたが、維新後使節団メンバーたちは

新しい世で居場所を得てそれぞれ活躍しました。
中には哀しい晩年を送った人もいましたが、

その人たちの生き方にもわたしはとても感銘を受けました。





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