東京三宅家のはじまり 三宅艮斎とは | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

除籍謄本を取り寄せ、次はそこに載っている

人物名を調べていきました。
ネット検索してみたり、図書館で人名録や紳士録、
長崎県史を閲覧したり。
思いつく限りの方法で検索していきました。




図書館には人物辞典を並べたコーナーがあり
とても重宝しました。
明治時代の海外渡航者名簿などというものもあり、
行き先や目的も載せられていて、知っている名前を
見つけると、その人がいつどこへ何をしに行った

のかを知るのがおもしろくて読み耽って

しまいました。




そうやって検索していくうち、気になる写真を

見つけました。
それは桔梗の紋付を着た若いサムライの

肖像写真で、名前が三宅秀とありました。




桔梗紋と三宅。
二つ揃っているのでこれは何かあるかもしれないと、
この人についてさらに検索していくと
どうやら医者になった人のようです。

さらに、この三宅秀の父は三宅艮斎(ごんさい)

という、やはり医者だった人だということがわかり、
しかも艮斎は島原からやって来た人らしいのです。





そのうち 江戸東京医史学散歩  という素晴らしい

ウェブサイトを見つけ、そこに三宅艮斎・秀親子が

紹介されているのを見つけました。
(この江戸東京医史学散歩には、他にも関係者が

多数載せられていることが後日わかりました。)




その中に「中村明男氏(三宅秀の曾孫)を誘って

旧東京医学校本館へ行く」という記事がありました。


中村明男氏は、日本橋・榛原社長とありましたので
榛原を検索してみると、創業200年の老舗紙問屋

だとわかりました。


榛原さんのウェブサイト があったので、早速メールで
連絡をしてみました。
するとすぐに明男氏の奥様(現社長)から返信を

いただきました。

明男氏はすでに亡くなっておられ、奥様は他家から
嫁入りしてこられたので三宅家について詳しくは

わからないということで、代わりに親戚の方を

紹介してくださいました。



その方は三宅秀の直系子孫にあたるS氏で、
わたしはその後現在に至るまでS氏に大変

お世話になっています。




S氏によると、三宅家の先祖は明智光秀では

ないかとの伝承があった模様ですが、詳しいことは

わからず、末裔だと断定するには至って

いないようでした。




光秀や藤兵衛のことはこの段階ではまだわが

三宅家との関係を断定することはできません

でしたが、S氏からいただいた家系図とわたしの

家の家系図とを照合した結果、

S氏・三宅艮斎・秀親子、そしてわたしとの関係は、

血の繋がりのある親戚だということがわかりました。



三宅艮斎・秀の直系先祖とわたしの直系先祖とが、
実の兄弟同士だったのです。




そして、幕末好きであるわたしが
何度も見ていた有名なサムライスフィンクス写真、
そこに三宅秀という自分の先祖が写っていたとは!












わたしの父も亡くなった祖父も医者ではなく、
近い身内に有名人や名士もおらず、わが家は

ごく普通の一般庶民の家庭です。
親戚から家系に関する話なども今まで一度も

聞いたことがなく、わたしは自分の先祖は名もない

農民なんだろうな…と漠然と思っていたので、

三宅艮斎たちのことを知ったことはかなりの

驚きでした。


その後三宅秀の子孫によりまとめられた、秀の

事績を記した『桔梗―三宅秀とその周辺―』

という本を手に入れ、艮斎・秀とその子孫、

縁者たちの詳しい系図を知ることになりました。




榛原中村氏やS氏の親戚で、やはり三宅秀直系子孫

の三浦義彰という医師がいます。
ハジメを診た帝大医師の上司三浦謹之助の長男に

あたる方です。



義彰医師は文才のある方で、医師としての専門書

以外に三宅家の歴史について何冊かの書籍を

上梓していらっしゃいます。


そのうちの一冊

『医学者たちの150年 名門医家四代の記』 という
本は、三宅艮斎・秀親子、秀の女婿三浦謹之助、
そして謹之助の長男である義彰氏について

綴られたものです。



この四人は揃って医者であり、幕末から明治そして

昭和へと続く日本の近代医史に名前を残した

人々です。
この四人の事跡とそれにまつわる近代日本

医学史が記されていて、歴史上の人物も多数

登場し、医学に興味のない人でもとても

楽しく読める本となっています。





それでは今日はまず三宅艮斎という人について
書いてみようと思います。






三宅艮斎 
文化14年(1817)~明治元年(1868)




艮斎は島原・有馬村(北有馬)の医家・三宅家の四男

として生まれました。
13才の時に医師であった父を失い、それをきっかけに

家を出て最初は熊本に遊学。
のちに長崎の楢林永建の塾に入門しました。



楢林家は代々オランダ流外科で有名な医家であり、
艮斎が入門する前年まで楢林塾にはシーボルトが
出島から出張診療に来ていたということです。


この塾に8年いた艮斎は、当時行われていた

外科手術の大半を習得したそうです。

この塾には江戸から来ていた和田泰然

(のちの佐藤泰然)という人がおり、泰然は修行を

終えて江戸へ帰る際、仲良くなった艮斎ら

数人を誘いました。





ここから江戸(東京)三宅家の歴史が始まりました。






『医学者たちの150年』によると、三宅艮斎という人は
医者というよりも、森羅万象に対する広い興味、
すなわち百科に通じることを願った人物では

ないか…ということです。



艮斎に限らずこの時代の蘭方医は、医学だけ

ではなく科学全般を学ぶことが求められた状況に

ありました。
語学や兵学、博物学的な知識が必要になることも

あり、村田蔵六こと大村益次郎などは解剖が

得意な人でしたが、のちには兵法家として

有名になり長州藩にスカウトされました。



艮斎も医学だけでなく、本草学や兵学にも興味を

持ち、大砲の試射を見学したり、大型船の試運転に

同乗したりしたこともあります。


天体観測を自宅の庭で試みたり、銃器も好きで
護身用(蘭学者は攘夷派から狙われていた)に

ピストールを持ち歩き、弾丸の輸入が途絶えた

ときには自作をはじめて、大量の弾丸を製造する

方法を発明し、佐倉藩に売り込んだりしています。



また、艮斎は数百種に及ぶ鉱物を集め標本を作って

いましたが、それを江戸参府に来たシーボルトに

見せたところ、シーボルトは鑑定のためだといって

ヨーロッパに持ち帰ってしまいました。



艮斎はシーボルトにたいして再三再四返却を

求めましたが、シーボルトは応じませんでした。
スパイ疑惑もあったシーボルトがもっとも

知りたかったのは、日本の地下鉱物資源について

だったのです。




のちに三宅秀がヨーロッパへ行った折に

シーボルトに面会し標本の返却を求めましたが、

この時シーボルトはあまり重要でないほんの一部

のみ返却しただけで、残りは頑として

返そうとしませんでした。


シーボルト、借りパク!


結局現在に至るまで、日本初ともいわれるまとまった

鉱物標本は行方不明のままです。




この標本についてなにか情報をお持ちの方、
どうぞ拙ブログ宛てにご連絡ください。






長崎から江戸に戻った泰然は本所薬研堀で

和田塾を開き、医学生が大勢集まり盛況を

極めました。
近くで開業した艮斎も、泰然が大手術をする際には
手伝っていたそうです。




天保10年(1839)蛮社の獄



追われた高野長英は、弟子である泰然のもとに

逃げ込み、それがもとで泰然は江戸に

いられなくなりました。


泰然は、蘭癖といわれた千葉の佐倉藩主・

堀田正睦公の庇護のもとに佐藤と改姓し、佐倉で

外科医院を開きました。
これがかの順天堂の始まりです。



やがて泰然は佐倉に艮斎を呼び寄せ、艮斎は

佐倉藩の藩医となり、泰然と二人で一緒に手術を
行うこともありました。
これが天保15年(1844)。
斎藤一が生まれた頃のことです。



その4年後の嘉永元年頃には艮斎は江戸へ戻り、
本所で外科医院を開きました。
庶民や侍、大名に対して手術を行い江戸の

名医として知られるようになっていきました。



安政5年(1858)。老中首座となっていた

堀田正睦公が、日米修好通商条約の勅許を朝廷に

求めに行った際、艮斎はそのお供として京へ

行ったりもしています。
長崎で学んでいた松本良順や、大坂で適塾を
開いていた緒方洪庵らとも付き合いがありました。






当時大流行したコレラ(コロリ)に対して

蘭方医たちは無力でしたが、痘瘡(天然痘)の予防

には貢献しました。





安政4年(1857)8月。



江戸の大槻俊斎の家に艮斎、伊東玄朴、

坪井信良ら蘭方医11名が集まり、彼らが発起人と

なって神田・お玉ヶ池に種痘所が開設されました。
艮斎が頭取を務めた時期もあったそうです。



開設には発起人の他に80数名の蘭方医が加わり、
みな募金をして開設にあてました。

この発起人11名の中には、現代日本で最大の

学者家系といわれる箕作家の先祖や、漫画家

手塚治虫に繋がる手塚良庵なども加わっています。
手塚さんの『陽だまりの樹』に種痘所のことが

出てきます。



この種痘所はのちに東京大学病院へと

発展しました。





種痘所は開設した翌年火災に遭い、下谷和泉町の

藤堂屋敷へ移転しました。
種痘所開設に数百両もの大金を寄附したのが、

艮斎の親友であり社会福祉の為に商いを

していたかのような銚子の醸造家・ヤマサ醤油

当主の浜口梧陵 です。



小泉八雲は梧陵のことを「生ける神(A Living God)」と
讃えています。
(わたしの住む大阪のスーパーではお醤油

コーナーはキッコーマンとヒガシマルが幅を

利かせていてヤマサは置いていないお店も

あるのですが、なるべくヤマサを探して買うように

しています。)




この種痘所開設あたりのことはドラマ「JIN―仁―」で
かなり脚色されて描かれていました。
史実とは大きく異なるので要注意です。







艮斎と佐藤泰然との交友は生涯続きました。
佐藤泰然の跡継ぎとなった養子で東京順天堂の

創立者である佐藤尚中(たかなか)の次女・藤は、

艮斎の長男・秀の妻となりました。



佐藤家と縁戚となったことで、三宅家の閨閥が
こののち大きく広がることとなっていきます。



艮斎は明治元年(1868)、食道がんで亡くなりました。
ちょうど上野戦争がはじまろうとする頃でした。






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