本能寺の変の興った天正10年。
三宅藤兵衛2才。
本能寺で主君織田信長を討った明智光秀は、
諸侯にむけて傘下に降るよう要請しますが
思うように協力は得られず、娘ガラシャを
嫁がせていた盟友細川藤孝も明智軍には
加わらず、結局大山崎合戦で秀吉軍に敗北を
喫してしまいます。
光秀は居城坂本城を目指して落ち延びる途中、
落ち武者狩りの者の槍により重症を負い、
京都小栗栖村のあたりで切腹して果てたと
伝わります。
この時三宅藤兵衛の父・明智左馬助は
安土城の守備にあたっていましたが、光秀敗死の
報を聞き、光秀と明智一族の居城である坂本城に
向かいました。
この時、敵の追尾を切り抜け、琵琶湖を愛馬に
またがったまま渡りきった「左馬助の湖水渡り」
伝説が生まれます。
その様子は歌舞伎の一場面にもなり世に広まり
ますが、おそらく湖水渡りはフィクション
だと思います。
ただ、そんな勇壮な伝説が生まれるほど
優れた武将だったんだろうと思わせる
伝承がいくつか残っています。
後日また書きたいと思います。
坂本城に戻った左馬助は、妻倫子を含む光秀の
家族たちを手にかけたあと、城に火をかけ
自身は切腹。
美しさを讃えられた水城、坂本城はあとかたもなく
消え去りました。
近代になり発掘調査もおこなわれましたが、
どのような城であったのかほとんど何も
わかっていません。
何十年に一度かの渇水で琵琶湖が干上がった時、
一瞬その石垣だか堀だかの痕跡が姿を現すことも
あるようですが、確かな位地や規模も今となっては
わからない、幻の城です。
左馬助の嫡男藤兵衛もその母や一族とともに
坂本城で短い生涯を終えたかのように思われ
ますが、実は藤兵衛は生き延びていたのでした。
家を残すことが何より重要だったこの時代、光秀の
家族たちで、藤兵衛以外にも生き延びた人が
いるという伝承が各地に残っています。
光秀の家族たちの遺体が発見されたり、捕まって
処刑されたという確かな記録もないのでそのような
伝承が生まれたのでしょうか。
それとも本当に生き延びた人たちが
いたのでしょうか。
わたしが家系調査を始めて明智との関わりを目に
しはじめた時、あまりに有名人すぎて、たぶん
ただのデマだろうと思いました。
何かが間違って伝わっていたのだろうと。
ですから、でてくる話をすべて片っ端から疑って、
まず否定することから調査をはじめました。
そうやって否定しても次から次へと裏づけのとれる
事実ばかりが残っていき、現在に至っています。
三宅藤兵衛が落ち延びた話も最初はもちろん
疑ってかかりました。
それが、わたしが島原へ行ってから、藤兵衛は
確かに生きていたと確信できる証拠がいくつも
見つかりました。
そのうちの一つが島原の図書館で見つけた
資料です。
『耶蘇征伐記』という資料に、「三宅藤兵衛は
本能寺の変の時に2才で、父の明智左馬助が
藤兵衛を黄金50両とともに姥に預け、
坂本城から落ち延びさせた。
姥は坂本と京の間にある八瀬の里に隠れ、八瀬の
里人は喜んで藤兵衛を匿った。」とあります。
もう一つ、藤兵衛の家臣であった吉浦家に伝わる
覚書には「藤兵衛は坂本城から姥に預けられて
落ち延びた。
京の商人、大文字屋に育てられていたが、のちに
細川家に引き取られ、ガラシャ夫人に育てられた」と
記されています。
わたしはこの『吉浦郷右衛門覚書』に登場する
「京の商人・大文字屋」が存在するのかと調べた
ところ、信長、光秀と同時代人の大文字屋という
豪商のいることがわかりました。
この大文字屋こと疋田宗観は、所有していた
名物の茶器「初花肩衝」(はつはなかたつき)を、
献上という名で信長に分捕られた人です。
京で匿われたのち藤兵衛は細川家にひきとられ、
ガラシャはじめ細川家の人々に大切に
育てられました。
ガラシャの遺書にも藤兵衛のことをよろしく頼むと
書かれてあります。
藤兵衛はガラシャの影響でしょうか、キリシタンと
なりましたが、のちに棄教しています。
そしてガラシャ亡き後、理由は不明ですが、
細川家を離れ唐津藩寺沢家に仕えました。
寺沢家の藩主夫人は光秀と同族である土岐一族の
人であることと、左馬助の家臣であった
天野源右衛門が、明智家滅亡の後寺沢家に仕えて
いたことが、唐津藩に赴くことになった理由だと
推測されています。
唐津藩士となった藤兵衛は重臣として遇される
ようになり、同族妻木氏の妻も娶り跡継ぎの
男子も生まれ、順調に唐津藩士としての日々を
過ごしていたようですが、唐津藩内では外様として、
また早い出世を妬まれることもあり、
苦労した様子があります。
唐津藩では藩側と領民の間に立ち、
追い詰められたような気配もあります。
そんな時に興った天草・島原の乱で、藤兵衛は
富岡城を守ろうとして出陣。
多勢に囲まれてしまい、最期は切腹して果てました。
藤兵衛のお墓は、亡くなった場所に近い
広瀬村にあります。
ここは藤兵衛の知行地の一つでもありました。
そしてその墓前には慰霊のために立てられた
石碑があり、その石碑には藤兵衛の家紋、
明智家の家紋である桔梗紋と共に、石碑を
献碑した「有馬三宅一族」という文字も
刻まれています。
その有馬三宅一族こそ、
わたしの父の一族なのです。

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