三宅藤兵衛とは?  その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

島原の乱に関わった三宅重利(藤兵衛)とは?




三宅藤兵衛は天草・島原の乱で討ち死にした

唐津藩士ですが、もともとは熊本の細川家の

人でした。




天草・島原の乱当時、天草地方は唐津藩・寺沢氏の

飛び地領でした。
その天草に富岡城という城があり、三宅藤兵衛は

富岡城の番代をしていました。
番代とは唐津本藩の筆頭家老級の役職に

あたります。
藤兵衛の石高は3000~3500石。





藤兵衛は富岡城番代として領地支配にあたって

いましたが、その頃天草地方は、松倉氏の治める

対岸の島原地方とともにキリシタンの多い

地域であり、藤兵衛は藩主寺沢堅高の命により

キリシタンを取り締まっていました。
棄教しない信徒を拷問にかけた非道な人物だったと

いうような話も伝わっていますが、その説に異論を

唱えたのが『天草の乱秘聞――富岡城に立つ虹』

著者村上史郎氏です。






天草出身の村上氏は丹念に資料を調査し、

「藤兵衛はかつて言われた血も涙もない鬼のような

人間などではなく、むしろ寺沢氏の圧政から領民を

守ろうとし、キリシタンにも相応の理解を示した

人物である」という主旨の評価を与えています。




藤兵衛について詳しくは、ぜひ『天草の乱秘聞』を
読んでいただきたいと思います。




司馬遼太郎氏も『街道をゆく』シリーズの

島原・天草編で「藤兵衛について多くは

わからないが、松倉氏の家老たちのような

悪逆非道な印象の人物ではなかったと思われる」

という内容の一文を書いています。






寛永14年(1637)天草・島原の乱勃発。


蜂起した天草のキリシタン信徒を中心とした

一揆軍は富岡城を攻撃。
一揆軍を迎え撃とうとした藤兵衛は出陣するも

討ち死にしてしまいました。
享年52。






三宅藤兵衛の元の名は、おそらく明智藤兵衛で

あったであろうと思われます。




藤兵衛の父は明智光秀の家老であり福知山城代を

勤めた明智左馬助。
(明智左馬助については諸説あり名前も複数

伝わっていますが、拙ブログでは明智左馬助

もしくはその旧名・三宅弥平次に統一します。)




藤兵衛の母は明智光秀の長女・倫子
(倫子についても記録が少なく、また錯綜し、光秀の

実子ではなく血縁関係にある親戚の娘を養女

にしたという説があります。
また名前も複数伝わっていますが、拙ブログでは

倫子に統一します。)






倫子ははじめ織田信長の家臣・荒木村重の嫡男、
荒木村次の正室となりましたが、村重が謀反を

興した際に離縁され、明智家へと戻されました。
その後、光秀の重臣三宅弥平次に再嫁。
弥平次は光秀の女婿となり、明智左馬助と名を

改めました。




左馬助・倫子夫妻の間には嫡男藤兵衛が生まれ、
一族は幸せな日々を送っていましたが、

天正10年本能寺の変勃発。


その時藤兵衛は2歳でした。





つづきます




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