土地の不思議 その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

わたしの住まいは大阪にあります。
生まれは神戸で、3歳の頃に父の仕事の都合で
大阪に引っ越して来ました。



関西に住んでいて良かったと思うことは、

いたるところ史跡だらけだということです。



わたしの住む地域は大阪の北部、北摂と呼ばれる

エリアで、大阪市内の中心部や南部へ

行くよりも京都へ行くほうが近くて早いので、

史跡巡りするにはとても良い場所に

住んでいるなぁと常々思っています。





家系調査を始めてからは、その関係の史跡に

眼が行くようになりました。

すると、わたしの生活圏内は、ご先祖様ゆかりの

場所だらけなことがわかりました。





わたしは去年転職したのですが、長年勤めた

会社への通勤途中の駅には、細川家の

大坂菩提寺である崇禅寺という寺院があり、

そこには明智光秀の娘・細川ガラシャの

お墓があります。




そして、勤めていた会社から徒歩10分ほど離れた

場所は細川家の大坂屋敷があったところで、

そこでガラシャは亡くなりました。

旧町名はガラシャの夫・細川越中守忠興にちなみ

越中町といいました。

跡地には細川屋敷の台所にあったという

井戸(越中井)が残り、そのすぐ隣の敷地には、

ガラシャと高山右近の像が祭壇に掲げられた

カトリックの大聖堂が建っています。





勤務していた会社のある地名は法円坂と

いうのですが、以前は鈴木町という町名でした。
江戸期にはここに鈴木代官の屋敷が

あったからです。


鈴木代官とは、わたしが調べている

あの鈴木重成のことです。

鈴木重成は天草と大坂、両方の代官職に就き、
九州と大坂をいったりきたりの生活をしていました。
その大坂屋敷のあった土地が、明治12年に法円坂と

改称されるまで鈴木町と呼ばれていました。




勤めていたオフィスのすぐ眼の前には

国立大阪医療センターがあり、その敷地の

東南角には、この地で亡くなった大村益次郎の

巨大な石碑が建てられています。

わたしは毎日窓からマスジの石碑を見ながら

働いていました。

マスジは明智氏とはなんの関係もありませんが、
大村家の家紋は「丸に桔梗」です。
これは一体なんの偶然でしょうか。




大阪医療センターの敷地というのは、明治2年に

創設された大坂府医学校病院があった場所であり、

この医学校が発展し大阪大学医学部となりました。
大坂府医学校には、緒方洪庵の次男・緒方惟準、
オランダ人医師ボードウィンらが勤務していました。


この病院関係者たちとわが家系との繋がりを

後に詳しく知って、大変驚きました。




つづきます



ペタしてね


読者登録してね



人気ブログランキングへ