斎藤一ってどんな人?  新選組と斎藤一について その2 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

前回は新選組についてお話しましたが、

今回はわたしの人生を狂わせた(?)

斎藤一という幕末男子についてお話します。






実は斎藤一というのは本名ではありません。

生まれた時に付けられた名は、

山口一といいます。



ハジメさんの実家山口家は、江戸の

下級武士の家です。

ハジメの父と兄は、鈴木家という三河から

徳川家とともに江戸へ来た旗本の家に、

用人として仕えていました。



鈴木家のそのまた上司は

白須甲斐守という五千石の

旗本です。




(あれこれ名前が出てきて、

わたしのブログはこの先

読みにくいことがあるかも

しれませんが、

拙ブログに登場する

人名や家系は、それぞれすべて

意味と繋がりがありますので、

「そういえば以前この名前を見たなぁ」

と頭の片隅に留めていてくださると

とてもうれしいです。)






山口一は弘化元年(1844)

江戸で生まれました。



改元の関係で天保15年説も

あるのですが、とりあえず

弘化元年1月1日生まれとしておきます。


実際は日付が変わった1月2日

とする説もありますが、

1日生まれなので、次男だけれども

一(ハジメ)と名付けられたようです。



斎藤一というのはファンの間では

謎の多い人物として知られていますが、

出生からして謎めいていて、

そこがまた彼の魅力の一つとなっています。





山口家の家族構成は、

両親と二男一女。

ハジメは末っ子です。



ハジメの父・山口右助(ゆうすけ)は

明石藩の足軽出身で、

家督を妹に譲り江戸へ出て

鈴木家に仕えました。



が、実は右助は明石藩士ではなく

幕府の隠密で、潜入捜査のため

明石藩に行っていたという説が

あります。

しかしその説を唱えた赤間倭子氏は、

根拠となる史料を提示しなかった為、

赤間氏が亡くなった現在、

隠密説は立証されていません。




さて、旗本鈴木家の最後の当主、

鈴木万次郎という人がいます。

この人は旗本山本家から鈴木家に

養子に入った人でした。


その山本家と関わりがあったのが、

新選組二番隊組長・永倉新八の

実父・長倉勘次が仕えた曲渕家です。

(新八は本名は長倉ですが、

新選組では永倉と名乗っています。)



ハジメと新八はそれぞれの実家を

通して、若い頃からの知り合いだった

可能性が高いのです。



ハジメが試衛館に出入りするようになったのは、

おそらく新八を通じてだろうと思われます。




市ヶ谷・飯田橋界隈には

講武所や有名流派の道場など、

のちの新選組幹部たちに

関わりのある場所が、

多数固まって存在していました。



山南さんや島田魁はこのあたりの道場に

通い、新八やハジメもウロウロし、

局長近藤勇さんの妻となるツネさんの

実家もこのあたりにありました。



ある意味、京都壬生村よりも

新選組関連史跡が密集する、

新選組ファンにとっての

聖地といえるエリアです。




ハジメという人は、

学者肌の父と兄らに

囲まれ(ハジメの兄・廣明は

和算塾を開き、

維新後は大蔵官僚となります。)

実直で潔癖で剣術の大得意な

青年に育ちました。




「藤田家文書」というものがあります。

これはハジメの長男・藤田勉が亡くなる際に、

藤田家の歴史を語り遺したものを、

勉の妻みどりが口述筆記した文書です。

(斎藤一は維新後は藤田五郎と名乗ります。

それが彼の最後の名となりました。

遺言により、彼には戒名はないのです。)



藤田家文書には、ハジメ19歳(数え年で19なので

満年齢は18歳。文久2年にあたる)の時、

小石川関口で旗本の士と諍いを起し、

誤って相手を殺害してしまった、

そのため江戸を出て京へ向かったと

書かれてあります。



(まったくの偶然ですが、小石川関口

というのは現在の関口、目白台の

あたりで、目白台には細川家の

永青文庫があります。)




文久2年は新選組の基となった

浪士組結成の前年。

京都守護職となった会津藩が

京に赴任した年です。




この文久2年、山口家の主人にあたる

鈴木家の当主・親之輔が急死しています。

死因は伝わっていません。

このため山本万次郎が鈴木家に

養子に入り死跡相続しました。




もしもハジメが誤って殺してしまったのが、

自分の主筋にあたる親之輔だったとしたら…。


ハジメが殺してしまったのは

一体誰なのでしょう?


もしも本当に人を殺してしまっていたのなら

ただでは済まされないはずなのに、

あっさり京へ行っただけで、

その後お尋ね者になった形跡も

ありません。


ハジメの父と兄は、ハジメ出奔後も

何事もなかったかのように、

鈴木家に仕え続けています。


死跡相続というのはなかなか

認められにくいものだと思うのですが、

なぜ鈴木家は認められたのでしょうか?


また、ちょうどこの頃、

鈴木家の主筋にあたる旗本・白須甲斐守は

なぜか急に知行が倍に加増され

五千石となっています。


鈴木家の死跡相続と、白須甲斐守の

石高倍増とは何か関係があるのでしょうか?




こうしていくつもの謎を残しながら

ハジメの少年期は終わり、

血しぶきを浴びる青年期が

京の都で始まることとなりました。






つづく





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